「雁の翼に(九)」
次の手掛かりを掴むつもりで伸ばした手が宙を掻いた。
予想外の空振りに一瞬動きが止まったその時、グイと手首を掴まれる。
「呆れたもんだ。本当に、こっち側は警備がいないんだな」
崖から引き上げられた土井が膝から転がり込むように地面へ飛び乗ると、風鬼は互いの体を括っていた縄を解きながらそう言って、ひょいと崖下を覗いた。その途端に吹き上げてきた潮風に顔をなぶられ、子供のように鼻にしわを寄せる。
「おお、やだやだ。闇夜の断崖絶壁はおっかないもんだ」
「この程度の崖、怖がるタマじゃないだろう」
「まあな。道具さえありゃ、うちの子でも登れそうだ」
高さはそれなりにあり、縁こそ天然のねずみ返しになっているが、波と風雨に浸食された崖の壁面は苦無や鉤を噛ませるにはおあつらえ向きの裂け目がいくつも走っている。晴れた日の昼間なら子供たちの登攀訓練に使えるな、などと考えていたところに似たようなことを言われて、土井は思わず目を泳がせた。
そのまま視線を転じ、頭をもたげて、暗闇へ向け目を細める。
居並ぶ大きな松の木が枝を広げているその奥に簡素な板塀があって、板の隙間からうっすらと篝火の踊る影が見える。塀の内にも外にも、差し当たり人の気配はない。
松の太い幹にそれでも身を隠し、その枝振りと板塀を交互に見比べながら、土井は首を振った。
「まるで出城全体が木の葉隠れをしているみたいだな。これじゃ、よほど目が良くたって、海上からは視認できない」
「隠してるんだろうさ。物見櫓も作っていないくらいだ」
風鬼はあっさり断定して、腰の後ろに回していた刀を鞘ごと帯から抜いた。そのまま身を屈めてするりと幹の後ろを抜け出し、駆けながら放り付けるように刀を板塀に立てかけると、下げ緒の端をくわえ鍔を蹴って高く跳躍した。
臙脂の影が軽々と板塀の向こうに消える。
それを見届けた土井は、こちらは少しずつ、足音を盗んで板塀に取りついた。そして両手を耳に添え、目を閉じ息を潜めて、ただ聴覚にのみ意識を集中する。
潮騒――虫のすだき――篝火にくべた薪が時折はぜる、乾いた音――
しばらくはそれらの繰り返しだったが、少しの後、風鳴りのような音が長く短く数回混ざった。
先刻、即興に打ち合わせた矢羽音は、「来い」と言っている。
即座に刀を踏んで塀を越え、音もなくひらりと内側へ着地するや素早く塀に沿って左へ走った。そのまま、白壁の土蔵の周囲に積まれた土嚢の陰へ滑り込む。
ほぼ同時に、反対側から風鬼が飛び込んだ。
「枡形虎口の外に立ち番が二人、内に巡回が二人いる。屋外にいるのはそれだけだ」
前置きもなしで土井に耳打ちする。
「ここから東の方向を見て手前の小屋は道具倉庫、それより奥の、向こう側の端に見える鉤型の建物は兵舎。長い部分が宿直所、塀へ向かって突き出す短い部分は厨だ」
「この土蔵は焔硝蔵だな」
風鬼の報告と、昼間のうちに隣の崖へ登って上から見た出城の構えを頭の中で重ね合わせて、言う。
建物の形や位置関係を俯瞰で言う風鬼も、当然、既に高所から確認しているのだろう。わざとらしい仕草で感嘆して見せる。
「御明察。さすが火薬管理の先生だ」
「からかうな。誰だって分かる」
それほど広くはない出城の敷地自体はほぼ長方形で、その北西の端に、厚い白壁に二層の瓦屋根を乗せた土蔵。厳重に土嚢が巡らせてある上に他の建物から離れているのだから、何かしら危険物があると考えるのは易い。今はこの土嚢の陰に二人で潜んでいる。町屋のようなつくりの兵舎から少し離れて建つ狭い小屋は厠だろう。風鬼が厨と言った場所のそばには、確か、
「虎口の右手に井戸があるはずだが」
「厨の前だ。釣瓶は切った。宿直所の中で兵が三十人ほど寝ている。壁に貼ってあった表によれば不寝番は一刻半(三時間)ごとに交代で、次は一刻(二時間)後になっていたから、眠り火をごっそり放り込んで来たぜ」
「そんな大量に持ち歩いてたのか?」
「備えあれば憂いなしってな」
眠り火の量に憂えるとはどんな状況だ。
思わず言いかけた突っ込みを飲み込む土井をよそに、風鬼は最後に残った建物を顎で指した。
「これは見ての通りだが、あれが出城の本丸だ。ちょうど反対側の位置、南東の角に明障子のある部屋があって、今はそこだけ灯が見えた」
「本丸――」
土井もそちらへ目を凝らす。伽藍(がらん)ならば金堂に当たる本丸は小体な造りながら、豊かに広がる入母屋造のこけら屋根や、周囲に巡る回廊を篝火に照らされて、敷地のほぼ中央へ泰然と鎮座している。
伽藍なら。
無意識にそう例え、土井は「そうか」と呟いた。番兵の質と言い建物の配置と言い本丸の建築様式と言い、出城を名乗るわりにどうも戦略基地の面影が薄いのは、妙に瀟洒な雰囲気が貴人の別荘や寺院に似ているせいだ。予備知識無しにここへ連れて来られ、「出城の本丸を指してみせろ」と言われたら、山中で鯨を釣れと言われた心持ちがするに違いない。兵舎の壁に立てかけられた長柄武器がかえって場違いに見えるほどだ。
「そうか、って何が」
「灯のある部屋に人は」
「無視かよ。居る気配だった。あと、馬はいないが、その部屋の正面に厩があったな。……蓮の池じゃなくてな」
付け足した声に嫌悪の色がある。顔を見れば風鬼は眉間に軽くしわを寄せている。蓮池という言葉が出るということは、風鬼も本丸が持仏堂か何かのようだと思っているらしい。
「こういう佇まいは嫌いか」
「嫌いじゃあない。が、風流すぎる」
「妙な文句だな」
「なら言い換えよう。俗気たっぷりで出来た出城のくせに、俗気のかけらもないようなツラで澄まし返っているのが気に入らん」
「出城に見えないよう敢えて取り繕っているか、そうでなければ、ここの守将が粋人なんだろう」
土井がそう言うと、風鬼は横を向いてケッというような声を出した。
「それなら、やたらと化粧が上手い性悪女も粋人かよ」
「その手の女に嫌な思い出でもあるのか? 静かにしろって」
たしなめて、土嚢越しに周囲を窺う。
本丸を囲んで点々と据えられた篝台の中で火が燃えている。橙色に広がる光の輪は、本丸の輪郭を夜目にもくっきりと浮かび上がらせているが、焔硝蔵の辺りにはその明るさの裾さえ及ばず、土嚢の裏に潜む人間もろともすっぽり闇に沈んでいる。
その闇にわだかまって、土井は考えた。
明障子のある本丸の南東の角。おそらく守将の居室だろう。出城を築いた目的を示すもの、ひいては「計画」の手掛かりがあるとすれば間違いなくそこだ。夜更けた未だ灯火を途切らせずにいるのは待ち人があるからか――あの忍者が、自分を連れて戻るのを待っているのか。
ならば今、自らそこを侵すのは、餓虎の前へ身を晒すに等しい。
さて、どうするか――
「今夜、どうするつもりだった」
不意に、一段と声を落として風鬼が尋ねた。
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