「雁の翼に(六)」
用心深い狐の様に、夜目にうっすら映る木立や岩の影を拾って、暗い草原を駆け抜ける。
時折傍らを追い抜いて行くのは姿なき風だ。ざざっ、ざざっと草が鳴り、軽い足音はそこに紛れ、吹き散らされてあっという間に後方へ飛び去って行く。
昼の陽気はどこへやら、だな。
出城の配置を思い浮かべながら、土井は心の内で呟いた。夜の空気はひやりと冷たく、吸い込むそのたび肺腑を冷やして、逸る鼓動を落ち着かせる。
林と板塀で二重に囲まれた出城の三方は更に海に囲まれ、波に侵食された崖が天然のねずみ返しになっているから、警備は薄い。
侵入経路を頭に描き、想像の中で何度も試行を繰り返す。
やがて差し掛かった辻堂を通り越し、山路を逸れて、海岸へ出るべく道なき道を踏んで麓を回り込む。やがて吹き過ぎる風に潮の香が、風の音に潮騒が混じり始める。
――と。不意に木々の圧迫が失せ、ぽかりとひらけた空間にあっけなく飛び出した。
「うわっ、と」
つんのめりそうになって慌てて足を止め、危ういところでその場に踏みとどまる。
遥か足元で波の砕ける音がする。どうやら大きな岩盤の上に出たらしい。そこから仰向いて崖を見上げ、星明かりに浮かぶ木の影へ目を凝らして、思わず「良し」と口の中で呟く。。
目算通り出城の真下に出た。そうと分かればためらう暇はない。登攀用の苦無を懐から引き出しながら、もっと崖に近い場所まで降りようと、身を屈めて足がかりを探す。
瞬間、身を翻した。
「何者だ」
片膝立ちで苦無を顔前に構え、誰何する。
視線の先に、さきほど通り抜けて来た茂みが、ひそやかな星明かりの中で暗がりに沈んでいる。その闇の一部が人の形を持ってゆらりと動いた。
距離はおよそ三間(約5.4m)。間に遮蔽物はない。見えない顔を睨み合い、人形(ひとがた)の影も土井も微動だにしない。
そして、沈黙。
土井がぐっと苦無を握り直したその時、思いがけず凛と涼しい声が響いた。
「お待ち申し上げておりました。忍術学園教諭、土井半助殿とお見受けするが、如何か」
「何?」
突然、所属と名を呼ばれ、土井は思わず声を高くした。それに構わず影は続ける。
「昼の密使代行、改めて痛み入る。再訪がこのような夜更けゆえ、酒宴をもっての歓待は叶わぬが、どうぞ穏便に拙者の言葉を聞き入れられますよう」
「何者だ」
馬鹿丁寧な物言いに、内臓を針の先で掻かれるような苛立ちを感じ、語気を強めて再び言った。
「――さもなくば、貴殿にとって望ましくない事態になりましょうぞ」
人には要求しておきながら、こちらの言葉を聞く気はないらしい。土井は素早く立ち上がると、影に向けて言い放った。
「どうしてわたしの素性を知ったか知らんが、そちらの要求に従うつもりはない」
「交渉は決裂とおっしゃるか」
「あれが交渉のつもりならその通りだ」
「まことに残念至極。ではこれより御無礼仕るが、決裂の断を下したのはそちら。遠慮は致しませぬ」
言うほど残念ではなさそうに淡々とした声が返って来たのと同時、銀色の線が空を貫いた。
はっと飛びずさった足元の岩に、剣身形の棒手裏剣が硬い音を立てて弾かれる。
先制の不発を悟った影が刀を抜いた時、土井は既にその懐へ飛び込んでいる。素早く半歩下がった位置から一髪の間隙なく繰り出されたひと突きを、右逆手に構えた苦無で受けて流す。
ギインと尖った音が響く。
その一瞬、額をぶつけそうなほどに、二人の顔が近付いた。
ひどく目の大きな若い男だ。鼻から下は覆面に隠れ、頭巾の下でさらりと流れた前髪の間に、刀除けの鉢金が鈍く光る。
刃を噛み合せ、瞳を間近に睨んだまま土井は短く吐き捨てた。
「忍者か」
「左様」
若い忍者も一言で答える。それを聞くや、土井は半弧を描くように刀を大きく跳ね上げた。
手元をすくわれた忍者は咄嗟に左の添え手を離す。がら空きになった左脇腹を土井の蹴撃が襲い、あばら骨の隙間へ廻し蹴りがまともに極まる。
が、一声さえも上げず、忍者は脇腹を押さえて数歩後ずさる。
土井は苦無を投げ捨て刀を抜き放つと、それを顔の横で八双に構えて再度問うた。
「あの出城の者か」
「それも、左様」
忍者は何度か短く息を吐き、刀を構え直して頷く。
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