「雁の翼に(五)」


 結局、出城へ土井、兵庫水軍の所へ乱太郎と庄左ヱ門と団蔵が出向き、山田と残りの子供たちは学園へ戻ることになった。男は「学園で手当てを」という申し出を固辞し足を引きずって去って行ったが、それは子供たちに恐れをなしたせいか、それとも。


「ドクタケもあの出城を気にしているのか……待てよ、風鬼がお前を追ったということは、変装がばれていたってことか」
「その代わりこちらも見抜きました。蛇の道は蛇ですよ」
「うーん。完璧に仕上げたと思ったんだがなぁ」
 いかにも無念そうな山田を前に、土井は渋面をしそうになるのを辛うじて押さえ込んだ。荷の中に女装に必要な道具一式が収まっていたのは諦めるとして、着物の着こなしから仕草・喋り方・化粧まで、山田の厳しいチェックにあって出発前から疲れ切ったと、今更言っても仕方ない。
「そう言えば、乱太郎たちは?」
「先に戻っておる。第三協栄丸はまったく出城に気づいていなかったそうで、これから警戒に当たるとのことだ」
「はぁ。呑気なもんですねぇ」
 それくらい大らかでないと荒くれどもの長など務まらないのかもしれないが、よくも今まで平穏無事に永らえて来たものだ。
「ドクタケは今のところ、兵庫水軍相手には大人しいそうだ。あとは、近ごろ商船の航行が増えておかげで儲かってるとか、あちこちで神隠しの噂を聞かされて幹部のひとりがビビりきってるとか、上乗りした船で小猿を肩に乗せた南蛮人を見たとか、水軍館にフナムシがわいて大騒ぎだとか」
「フナムシ……うわあ。要するに平和なんですね」
「ただ、面白い情報もあった」
 言葉とは裏腹に、山田はニコリともせず指先でトントンと地図を叩く。
「最近、伊予の水軍から武将がひとり出奔したそうだ」
 黙って目を上げる土井を見て、小さく顎を頷かせる。
「伊予三島の水軍はお前も知っているだろう。安芸の殿様がそこと盟約を取りつけ家臣団に組み入れている。あの国は親戚にも水軍豪族がいるから、海戦力はえらいこっちゃだ」
 伊予の水軍は、三つの島にそれぞれ拠点を構える親戚関係の海賊衆で構成されているが、そのうちの一家系が同盟締結に強い抵抗を示していた。結局は傘下についたが、その家中にいた武将が切り取った髻(もとどり)だけを残して姿を消したのだと言う。
 髻を切ることは出家、あるいは死を示し、武士にとっては死にも勝る恥辱とされている。古くは源平合戦の頃、源氏大将の逆鱗に触れた武将が、切腹すら許されず髻を切られて放逐されたという逸話もあるくらいだ。
「自分は死んだものと思え、ということでしょうね。行方は?」
「未だ知れずさ。有能だが野心家で、平安よりの伝統を持つ水軍が国人風情に従属してはならぬと、主の行動にひどく不満を持っていたらしい。それを諌める処分が決定されたばかりだったそうだ」
「処分に反発して逐電し、ここまで流れ着いて、出城の守将に就任したと?」
「断言はできんが、その可能性はある。海戦にこの人ありと言われる人間がそうぞろぞろいるとは思えんからな」
 言葉を切り、山田はひたりと土井を見据えた。見詰め返すと、黒鳶色の瞳に自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
 山田が言う安芸の殿様の覇権は今や中国地方を席巻し、都へも上ろうという勢いだ。それに対抗して水軍を創設、あるいは拡充したい誰かがいたならば、内部情報を持って出奔した武将は願ってもない人材だろう。
 進言を退けられ、それどころか処分を言い渡されるという屈辱を受けた水軍武将の中には、どんな火が燃えているだろうか。
「――学園長からは、出城を早急に調査するようにとのお達しだ」
「分かりました。すぐに潜入します」
 言いながら、土井は早くも立ち上がる。
 間もなく完全に日が落ちる。昼の続きの快晴で、暮れかけの空には星が瞬き始めているが、幸い今夜は新月だ。
「半助」
 勇んで部屋を出て行きかけた背中に、鋭い声が飛ぶ。
 厳しい表情のまま振り向くと、山田は同じ様に見返してくる。数瞬の間の後、きつい線を描いて結んでいた口がゆっくりと開いて、言った。

「風呂入れよ」


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