「雁の翼に(三)」
部屋の戸を開けると、しかつめらしい顔つきで地図を広げていた山田は、土井を一瞥するなり噴き出しそうな気遣わしそうな複雑な表情をした。
「わたしの顔に何か付いてますか」
素っ気なく言って戸を引くと、勢いのついた戸が枠に当たってパシンと音を立てる。それを目で追いながら、山田はかりかりと指先で頬を掻いた。
「いや、何もないが……そんなに変装が嫌だったのか?」
「そんなことはないですよ。それが必要なら、酒売り娘でも桂女でも白拍子でも何でもやりますとも、ええ」
「もしかして酔っ払ってないか、半助」
「いーえ全然」
全と然の間に三つぐらい小さい「つ」が入りそうな口調で返し、土井はポンと山田の正面に腰を下ろした。が、胸の前でがっちり腕を組んで視線は明後日の方を向き、つんと顎を上げている。しばらくそんな土井を眺めていた山田は「まあいいか」というようなことを口の中で呟いて、
「ご苦労さんだったな、半助」
と労った。
化粧を落とし着物だけは替えたものの、急ぎの報告だからまだ湯を使っていなくて、酒と白粉がふわりと匂い立つ。身動きする間にそれを嗅ぎ取り、土井はますます組んだ腕に力を込める。
酔っ払ってはいない。が、クサっている。
身にまとう香りがどうにも居心地悪く、ここへ来る途中で廊下を歩きながら意味もなく胸元や袖口を手で押さえたりしていたら、すれ違った四年生に「土井先生もお安くないですねー」と親父くさいことを言われてしまった。
教師とは言え若い健康な男子が外出から戻ってこの香りを漂わせていたら、何がしかの想像をされても文句は言えまい。しかしそれを実際に、しかもしたり顔で言ってしまうのが、この年頃の始末が悪いところだ。もっと下の学年なら「酒と白粉」の意味するものが分からないだろうし、上級生ならそれなりに解釈し黙って見過ごすだろう。
それに、土井先生も、ってなんだ。「も」って。
そんなことが頭を巡り返事に窮して立ち往生したお陰で、通りがかりにやり取りを聞いたらしい安藤に、ニヤリともニタリともつかない笑顔をされた。
これも任務と自分に言い聞かせて、半ば以上ヤケで苦手な女装をばっちり決めた後だ。括っていた腹もそれで完全に萎えてしまった。
不機嫌の理由を知る由もない山田は、それでも拗ねた子供のような様子が可笑しいらしく、笑いを噛み殺した声で言葉を継いだ。
「それで、出城はどんな様子だった?」
「兵も少ないし、大きい建物は一棟だけで物見櫓もないし、造りかけのような感じでしたね。入り江の引っ込んだ位置に……」
真面目な口調と表情に戻り、土井は地図上を指した。
「この、山の中腹から突き出た狭い崖の上にありました。正門――虎口に続く山道以外は三方を木に囲まれていて、海を隔てた西側には高い崖があります」
「どこの城のものかは分かったか?」
「旗も何もなくて、外からは分かりませんでした。門番の話ではあまり聡い殿様ではないようですが。ただ、出城の守将は船戦に秀でる人物のようです」
「……するとドクタケの線は消えたな。あそこは一応達魔鬼が水軍の第一人者だが、日本式船戦の勉強で大わらわのはずだ」
「ドクタケではないでしょう。風鬼がわたしの後をつけていました。互いに、風に祓われましたが」
さらりと土井が言うと、山田はふと厳しい顔をした。
ことのきっかけは「秋山縦断訓練」。名前は大げさだが、実際は秋の草木の観察を兼ねた、少し遠い山への遠足の予定だった。
それが、武器弾薬や食料に加えて、日帰りだから絶対に使用しない野営道具まで、自分の体重とほぼ同じ重さの荷物を背負っての行軍に変更されたのだから、子供たちが怒るのも無理はない。最低限の荷物を帯びて任地へ赴くのが忍者の常識だが、「物事が必ず常道を行くとは限らない」という学園長の一言で、えらくハードな授業に変更されてしまったのだ。
「山田先生、授業計画はどこへ行っちゃったんでしょうねぇ……」
「あの海の向こうだ。耐えろ、半助」
「上の気まぐれで苦労をするのはいつも現場なんだよな」
「思い付くだけで自分はやらないから、苦労が分かんないんだよ」
「あんまり言うとどっかから杖が飛んで来るぞ」
夜も明けきらないうちに出発し初めのうちこそブツブツ言っていた一行も、いつしか強行軍に疲れて誰も喋らなくなる。やがて日が高くなり、初秋の爽やかな空気の中を黙々と歩いていた時、二列縦隊のしんがりにいた伊助と虎若が突然大声を上げた。
「先生! 人がいます!」
「藪の中に倒れてます!」
縦隊を挟んだ前後で、山田と土井は思わず顔を見合わせた。
例によって例のごとく面倒なことになる予感はひしひしとしていたが、何人かが既に倒れた人物の所へ駆け寄ろうとしている。これでは見過ごすわけにもいくまい。
「気をつけろ。不用意に近付いちゃいかん」
最後尾にいた山田が子供たちを制する間、土井は用心深く藪の中に分け入って、うつ伏せに倒れている男を覗き込んだ。
むっくりした体つきで、町人風の小袖袴姿だが、烏帽子はどこかに吹っ飛んだのか後ろ頭の髷が丸見えだ。着物は泥だらけであちこちに千切れた草がくっつき、青灰色の袴は右膝から下に赤い染みが見える。それほどひどい怪我ではなさそうで、男は遠巻きに自分を囲む子供たちに気づくと、ぎょっとして体を起こした。
「き、君たちは誰だ?」
「忍術学園一年は組のよい子たちと担任の先生です」
「ということは、忍者か?」
「忍者のたまごです」
「略して忍たまでーす」
男は呆気に取られたように目を瞬いていたが、すぐにパッと顔を輝かせた。
「忍者か、そうか、これは渡りに船だ」
「あのぉ?」
「そちらが先生か。恥ずかしながら、頼みたい事がある」
恐る恐る声をかけた土井に、男はにわかに居ずまいを正して向き直った。
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