「雁の翼に(二)」


 女が下っていく山路の先に、古びた辻堂があった。
 先客はひとりの男。
 目深に笠をかぶり、高床の端に片足胡坐で腰を据え、小柄で器用に木の枝を彫っている。
 年の頃は三十半ば。袴を着けず、草色の小袖を片肌脱ぎにしている服装は、どこにでもいる男の姿だ。だが日に晒された細身の体躯は、ただ痩せているのではなく靭(しな)やかに引き締まり、そのあちこちに大小の古い傷跡がある。足元には薄黄緑の実をつけた枝が、無造作に束ねられ転がされている。
 削り進んだ手の中の枝を、彫り具合を確かめるように眺めて、フッと木屑を吹き飛ばした。
 細かな破片と一緒に芳香が舞う。
 もう一度小柄を手に取った時、低く流れてきた声に、男は手を止め顔を上げる。

「……生首、還俗、自由出家。にわか大名、迷い者、安堵、恩賞、そら戦」

 古い文句を口ずさみながら歩いて来る女を認め、笠の縁にちょっと触れて、眩しそうに目を細めた。
「こんにちは。まだまだ暑うございますね」
 辻堂に差し掛かった女は、そこに座る男を見ると、手でぱたぱた顔をあおぎながら屈託なく声をかける。
 男はややしゃくれ気味の顎を頷かせ、首にかけた手拭で面長な顔を拭った。
「それを思うと、ここを立つのも億劫になります。そちらこそ瓶が重くはありませんか」
「ええ、でも、もう慣れましたわ」
 快活に答えながら、ふと男の手元に目を向けて笑顔をする。
「まあ、可愛らしい。細工師の方ですか?」
 樹皮を剥いだ白い枝は、ごく大雑把にだが、尾の長いヤマドリをかたどっている。それを軽く持ち上げて見せながら男は肩をすくめた。
「いやなに、ただのしがないシキミ売りですよ。こいつは一休みの暇潰しです」
 そう言って、枝の束を爪先で小突く。
「ああ、道理でいい匂いがすると思ったわ。もう実の生る時期なんですね」
 女は膝に手をおいて屈み、その束に触れながら、香りを嗅ぐ仕草をする。
 それをちらりと見た男はそのまま目を伏せ、束の中から枝を一本引き抜くと、すっと女の眼前に差し出した。
「シキミの葉や皮は抹香の原料になる。その実は牛馬の虫除けにもなれば人間の胃薬にもなり、種の油を絞れば凍傷避けになる。一方で、口に入れればたちどころに命に関わる中毒を引き起こす。お嬢さん、シキミの名の由来はご存知ですかな」
 表情を変えずに淡々と言う。女は軽く口元に手をかけ、記憶を手繰るようにしながら答えた。
「――実に毒ありて悪しき実。そこからアが落ちて即ちシキミ、ですわね」
「実は甘く、花は美しく香り高い。それでいて、可愛らしく装った顔の裏には、人をも殺す猛毒を隠している。たちの悪い話だ」
 女が顔を上げると、一見人の良さそうな細い目が射るように見下ろしていて、まともに視線がぶつかった。
「一方で、死人の手向けに使うから、仏前草という二つ名もある」
 皮肉なことだ。薄い唇の端がわずかに吊り上がる。
「人を斬り、かえす刀を墓標に突き立てるようなものだ。そう思いませんか、お嬢さん」
 女は黙って体を起こすと、正対して男を見た。高床に腰掛けて片足をぶらぶらさせながら男は平然とそれを見返す。そして、女の体に見え隠れするふたつの瓶を指差した。
「その瓶の中は、酒ですね」
「ええ、そうです。灘や南都諸白みたいな上物じゃありませんけど」
「よければそいつを貰えませんか。わずかばかりの売れ残りなら、持って帰るのも大儀でしょう」
 瓶を下げる綱をぎゅっと掴んで、女は軽く目を見開いた。やや体を引き、片手を上げて乱れてもいない髪を撫で付ける。
 無表情を装う男の顔に、微かに笑みらしい色が見える。
 何度かゆっくりと瞬いて、女は不意ににこりと微笑んだ。少しの気後れもなくじっと男と目を合わせ、紅をさした唇を小さくほころばせる。
「――深紅に白斑の紅天狗茸は、一見いかにも毒々しいけれど、さほどの毒はないと聞きます」
 訝しげに男が眉根を寄せる。女は瓶を前にずらし、両手でそれを抱えて、物柔らかな口調で続けた。
「見た目に派手なものばかりが毒茸ではないんですってね。たとえば一夜茸は、くすんだ灰色の地味な茸だけど、お酒と一緒に食べると大変な中毒を起こすんですって」
 笠を少し持ち上げ、男は正面に立つじっと女を見上げた。それに向かって悠然と笑いかけ、女は瓶を再び肩に担ぐ。
「毒茸とお酒は相性が悪いのですわ。お止めになるがよろしいでしょう」

 出し抜けに小鳥が鋭い鳴き声を上げ、梢の間を飛び出した。
 それに引かれるようにゆるりと吹き出した風が一瞬後、轟と呻りを上げて駆け抜ける。
 薙がれた下草が地を這い、着物がバタバタと翻る。枝葉を散らしてほとんど地面と平行になるまでに撓(しな)る木々、それを横目に伏せた顔、顔をかばう腕に、舞い上がった土や木屑がまるで礫と叩きつける。男の手を離れた削りかけのヤマドリが高床の上を転がり、反対側の壁にぶつかって硬い音を立てる。

 そのひと吹きだけで辺りはすぐに静けさを取り戻した。
 訪れも去り際もあまりに突然で、幻を見たような気分に陥る。
「建御名方、か」
 ささめく梢を見上げ、男が独り言のように呟いた。吹き飛ばされた笠が背中へ落ちて首から紐でぶら下がっている、それだけが突風の名残だ。
「息吹戸主でしょう」
 乱れた裾を直しながら女が言うと、男は初めてはっきり表情を動かし、痩せた頬ににやりと笑みを浮かべた。
 前者は軍神の性質も併せ持つ猛き風の神。後者は海原に強風を生み、罪や穢れを祓う神だ。
「なるほど。祓われるべきものに、風が吹いたか」
「これ以上ここに留まれば、この上なにが起こるか分かりませんね」
「となれば、互いに長居は無用ですな」
「――それでは、失礼」
 女は軽く会釈をすると、それきり男には一瞥もくれず、文句の続きを口にしつつ歩き出した。

「本領離るる訴訟人、文書入れたる細葛。追従、讒人、禅律僧。下克上する成出者……」

 その後姿を見送っていた男はやがてフッと笑い、枝の束を担ぎ上げた。そして女とは反対の方向へ足を向ける。
 歩きながら、いつしか男も呟いていた。

「器用の堪否沙汰もなく、漏るる人なき評定所。着つけぬ冠、上の衣、持ちも習わぬ尺持ちて」

「内裏交わり珍しや。賢者かおなる伝奏は、我も我もと見ゆれども、巧みなりける詐は、」

「愚かなるにや劣るらん、誰を師匠となけれども。遍はやる小笠懸。事新しき風情なり」

「譜代非成の差別なく、自由狼藉の世界なり」



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