「雁の翼に(一)」


 海から舞い上がる潮風に、削り立ての材木の匂いが混ざって吹きつける。
 秋まだ浅い昼日中。中天の太陽は、真新しい屋敷とぐるりを囲む板塀と、所在なさげに虎口に佇む番兵をのんびりと照らしている。海は、空ほど大きな青い布をぱあっと広げたみたいにべた凪ぎだ。
 槍を携えた番兵は大きく息を吐いて、地面についた槍の柄に頭をもたせかけた。足元に落ちる自分の影が次第次第に短くなっていくのを観察しながら、今日何度目かのあくびを噛み殺す。
 ひとりの立ち番で、監視者がいる訳ではない。しかし前回の上番の時、盛大にあくびをしたらなぜかそれが守備隊長に知れていて、「いつ誰が来るとも知れんのだぞ」とこっぴどく叱られたことがあった。
 どうして隊長が知っていたのか、番兵には皆目分からない。だから常に気をつけざるを得ないのがちょっと面倒くさい。
 もっとも、訪ねて来るのは鳥か獣ばかりだ――そんなことを考えていたから、ぶらぶら歩きで坂を上ってくる人影が見えても、すぐにはそれが人間だとは分からなかった。
 茜色の小袖姿に髪をきちんと覆う頭巾。袖は襷掛けで、肩にふたつの瓶を下げ、裾をからげて脚絆をつけた脚で歩いている。
 振売の女だ。
 あたふたと槍を構え、門の前に立ちはだかって誰何した。
「そこな女。何用だ」
 大声に立ち止まった女はゆっくりと屋敷を見上げると、恐れ気もなく、それどころかはしゃいだような声を上げた。
「こんにちは。お館のお屋根があんまりきれいで、見惚れてしまいました。どちらの"お大尽様"の?」
「"大臣"じゃない。領主様のだ」
 訂正しながら、番兵は油断なく女を観察した。が、目が合う途端に愛敬たっぷりに微笑まれ、釣られて一瞬笑顔になりかけたが、慌てて強面を取り繕い厳めしく尋ねる。
「酒売りだな?」
「ああら、わたし葱売りにでも見えるかしら。ええ、お酒でございますよ、おひとついかが?」
 そう言って、番兵に見えるように、両方の腕にひとつずつ瓶を抱えてみせる。
 売り歩きの口上で喉を使うからか、少し声が低い。歳は二十をいくつか越したくらいだろう。しかし、童女のような物言いをするのが可笑しくて怒る気になれず、番兵は苦笑しながら手を振った。
「生憎と、いま手持ちがないんでな」
「お仲間さんはどうかしら。ねえ、聞いてみてもらえません」
「そりゃ駄目だ。俺は門番で、ここを離れられない」
「だって、わたしが中に入っちゃいけないんでしょ?」
「ああ、部外者は立ち入り禁止だ。ここは領主様の出城だからなあ」
「あと少しで全部売り切れるのになあ」
 番兵の口調を真似しながら、抱えた瓶をゆらゆらと揺すって見せる。
 襟の合わせがゆったりして、帯が長く余っているから一見そうとは感じなかったが、よく見れば意外に背が高い。重い瓶を担いで歩き回っているせいだろうか、体つきも華奢ではなく、日焼けした肌にあまり白粉(おしろい)の色が合っていない。
 だが、その仕草が妙に可愛らしくて、つい軽口を返した。
「悪いね、娘さん。ツケでよければ俺が買うんだけど」
「あらまあ、一見さんがツケなんておっしゃる。おしゃる闇の夜、つきもないことを、だわあ」
「いや、あのね……」
「あはは、冗談!」
 閑吟の意味は、分かって言っているのだろう。口ごもる番兵に明るく言い放つと、女はと指先でピンと瓶を弾いた。
「それじゃあまた今度お願いね。今度、がいつになるか考えてないけど」
「ああ、分かった、分かった。あんた酔っ払ってないか?」
「商売物に手は付けませんよ、だ。……ああ、気がつかなくてごめんなさい、わたしお仕事の邪魔ですわね」
 急にしゅんと目を伏せ、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。その言葉と表情で、番兵は最前から緩みかけていた相好を、とうとう崩しっぱなしにした。
「いや、退屈してたところだから丁度いい。滅多に人は通らないし、朝からずっとここにいるけど、あんたが一人目だよ」
「あら、そうなの。そうね、わたしもここは初めて来たわ」
「へえ? 何でまた今日に限って」
「ここの辺りに清水が湧いてるって聞いてたから、近くまで来たついでに見に来たの。いいお酒はいい水からだもの」
「そりゃ嘘だよ。この城だってわざわざ井戸を掘って水を汲んでるんだぜ。涌水があったら、そんな手間かけないでそこから引くって」
 番兵が塀の奥を指差して言うと、女は伸び上がってそちらを見た。片手庇で目を細めて、遠くを窺う顔をしながら、ふと思いついたように言う。
「海のそばで井戸を掘ったら、塩水が出てくるんじゃないかしら?」
「だから山の方に水脈を探したのさ。ほれ、大きい屋根の右っかわに水やぐらが見えるだろう」
「へえ。お殿様、頭いいんだ」
「殿は、あー、うん、まあ……」
「悪いんだ」
「はっきり言うね。でもな、ここにいる守備隊長は、海戦に関しちゃこの人ありと言われる切れ者なんだぞ」
「コノヒトアリってどんな蟻?」
 番兵がきょとんとすると、女は黙ってにっこりした。が、何気ないふうに自分の懐に触れると、ふと表情を変えた。
「そうそう、忘れてた。湧き水だけじゃないんだわ。これを届けてくれって頼まれてたのよ」
 胸元から円筒形のものを引っ張り出す。錆色に彩色された、簡素な拵えの経筒だ。
「これを? 誰からだい」
「名前は分かんない。さっき向こうでお酒を買ってくれたお客さんよ。お武家さんだったけど、この先にある出城の一番偉い人に渡してほしいって。出城って、ここのことで合っているかしら?」
「合ってるよ。ここより先には建物なんぞありゃしないもの」
「偉い人って、お殿様でしょう。信心に凝ってらっしゃるの?」
「いや、殿は出城にゃ来てないから、ここで一番偉いと言ったら守備隊長だな。あの人も別に信心はしてないと思ったけど……ま、ありがとうよ」
 経筒片手に首を捻りながら番兵が言うと、女は顔いっぱいに笑みを浮かべ、瓶を担ぎ直し「じゃあねぇー」と明るく手を振って歩き出した。

「お酒はいかがぁ。にごり酒だよ、飲んでおいでぇ。うすにごりもあるよー」

 遠ざかっていく口上を聞きながら、番兵はしばし、笑顔の余韻に浸っていた。


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