「雁の翼に(十七)」


 ばつん、と張り詰めたものが弾ける音が鳴った。
 同時に、雁の掛け軸が壁から床の間へ滑り落ちる。
 吊紐を断った棒手裏剣が壁に突き立って微かに震えている。それを横目に見たらしい守将が、怪訝そうに言った。
「話に飽いたか。だが此処こそ肝要の所なれば、心して聞け」
「趣味が悪い」
「あの絵は京で一番の絵師が描いたものだ。教養無くば風流も分からぬか」
 そうじゃねぇよバーカ、と口汚く罵る代わりに、風鬼は守将の頭の後ろで思い切り口を横に広げた。
 この男とこれ以上口をききたくない、と心底思った。同じ空間にいるというだけで肌がそそけだつような嫌悪感が沸き上がってくる。
「――だが、そうよな、名人と呼ばれるのに馴れて精進を怠った手わざで描いたつまらぬ画であるかもしれぬ」
 耳障りな嘆息をして、守将の口調が芝居がかった憂いを帯びる。
「まことこの世は、もはや黴の生えた古いしきたりに囚われて新しい風を入れようとしない、頑迷固陋な輩ばかりよ。"計画"を正確に理解でき、かつ腹を割って話せるような目ぼしい相手はそうそう居りやせぬ。なればこそ、多少強引な手を使っても風穴を穿つ英傑が必要なのだ。それが分かったら早う客人を連れにゆけ」
 風鬼は苦無を握る手の形はそのままに、ふっと力を抜いた。
「客人――とは?」
「土井なにがしなる青二才の透波だ。あの阿呆は、其奴を扱いかねて逃げたのかもしれぬ」

「いや、よくやってたよ」

 苦無を後ろへ引いて喉元から外す。 
 入れ違いに、右膝の裏を蹴り飛ばした。
 跪くようにして姿勢を崩した守将の背中へ蹴った足をそのまま移し、ぐいと体重を乗せて、真下へ落とす。
 守将は倒れながら咄嗟に体を捻り、脇差を握った右手を後ろへ振ろうとする。その手首をとらえ逆手にねじり上げて畳の上へ引き倒す。
 強情にもまだ柄を手離さないが、さすがに力は緩む。柄に絡みそこねて浮いた小指を素早く逆に曲げると、守将は短く籠もった声を上げ脇差を取り落とす。
 それを空中ですくい取り、振りかぶって、風鬼は笑った。

「腹、割っとくか?」
 逆落としに突き下ろす。
 切先が畳を抉った瞬間、刀身がビンと震えて反り返った。

 髪一本分も詰めれば鼻っ柱を断ち切る位置へ降った刃を、守将は凝然と見詰めている。
「そうそう。大人しくしなよ」
 右手首の関節を締め、緋羅紗の背中へ膝で乗り上げて肺の裏を圧しながら、風鬼はまるであやすように言う。
「よくまぁ独り合点であれだけ喋れるな。さては友達いないだろ。色々と都合良く勘違いしてるけど、俺はあの若いのを討ちに来た里の仲間じゃないし、手下になりに来たのでもない」
 目方で比べれば風鬼のほうが圧倒的に守将よりも軽い。しかし要所を的確に押さえられた守将には風鬼を跳ね除けられない。
 寝間着と陣羽織の上からでも分かるほど堅太りした背中の筋肉を蠕動させて、守将が喚く。
「おのれ、卑怯な! やはり刺客であったか」
 まともに空気が吸えないだろうに、呆れるほど声は大きい。筋肉に鎧われた肺とは頑丈なものだと変なところで風鬼は感心した。
 卑怯も何もない。自分は曲者だと、最初にはっきり宣言している。
 そして刺客だとは言っていない。
 だが、守将は相変わらず勝手に喋った。
「進言を諫言と曲げて取るのみならず、失ってやっと理解し得た才能の至大なるを厭うて討手を放つとは、これが名門水軍総大将たる者のすることか。そんな狭量な人物を主と仰ぎ、長年に渡って御家のために万事よく務めた己が身が不憫でならぬわ。風に語らい潮を愛する海のもののふを我が道とした時から不惜身命を思い決めたが、散り時を他人の手に委ねるなどは愚の骨頂、わしの深謀遠慮を甘く見るな。何があろうと一人では」
「よく鳴る三味線だなあ、おい?」
 堺で人気の最新楽器を知らなかったのか、それとも思い切り醒めた風鬼の口調に意気を殺がれたのか、話の腰を折られた守将は口を噤んだ。
「流行りものに飛びついて好き放題かき鳴らしてみるのはさぞかし楽しいこったろうな。だがなぁ、こちとら職業柄"音"にはちょいと耳が利くんだ。演奏にもなってない下っ手くそなバチさばきなんざとても聞けたものじゃない。どうせ夢幻の音曲ならば、弾き手は竹生島の弁財天でお願いしたいもんだ」
 濡れた衣を振り回すのも、弁天さんなら目の保養だしな。
 そう言いながら風鬼は懐を探り、取り出したものを守将の目の前の畳にひょいと投げた。
「何だ、これは」
 鼻先に転がった鉢金を見た守将が怪訝そうに言う。
「見覚えがあるだろう」
「ない」
 やけにきっぱりと守将は言い切る。

 若い忍者が額に着けていた鉢金の、蝋燭の火を受けて鈍く光る刀避けの金属板には、守将の陣羽織と同じ紋が引っ掻き傷のように刻まれている。

「つくづく報われねえな」
「何のことだ」
「あの若いのは俺が殺した」

 骸は崖の下だ。そこで死んでいる。

「それで戻らぬのか」
 守将の声が一瞬、歪んだ。
 憐憫か心痛かが現れたものと風鬼は思った。そうであれと頭の隅で期待した。その性善説的な考えは、一呼吸もおかずに霧散した。
「七面倒臭い。これからはいちいち使い走りを探さねばならんではないか」
 あれはあれで便利であったのにと素っ気なく言い捨てた守将の言葉には、それ以上の感慨は入っていなかった。
 俺って意外と甘いんだ、知らなかった。
 胃液が逆流しそうな吐き気を覚えて、風鬼は守将の太い手首を掴む指に力を込めた。みしりと関節が軋み守将が身じろぐ。
「これから、がある気でいるのか」
「無いという将来は見えぬな。"計画"成れば将来の先の先までずいと見通せると言うのだ。のう透破、先のない愚物のために忠を誓った所で何になる。ここでわしの首を取り停滞した世の中を更に腐らせるよりも、わしの下で働くほうが、余程この世を面白く生きて行けるぞ」
 風鬼を自分へ差し向けられた刺客と勘違いしながら、守将は再び弁舌を弄して丸め込みにかかる。いついかなる状況でも人材不足を埋めようとする、その根性は大したものだ。
 天下や歴史をどうこうするという話は、一介のリーマン忍者には大き過ぎて手に余る。しかし、
「"計画"ってやつの意義は、分からないでもない」
 いくら卑怯で狡くて傍迷惑な手段でも、成し遂げようとする目的の為にどうしても必要ならば、やる。
 正攻法に拘泥して正面突破で爽やかに砕け散るよりは、汚い手でもなんでも使って泥臭く勝ち抜けたほうがずっと上等だ。確かそんなことを言った戦上手の武将がいた。
 武士が政治や戦で講じる手段に浄不浄の別があったとしても、忍者である風鬼に武士の常識は無いから、それを見分ける基準もない。
 最終的に勝った側にいれば、それまでに何をしても全部チャラになるのが世の習いだ。結末を見る前に善悪や正否を問うことなど無意味なのだ。手段の是非を突き抜けて梟雄と呼ばれる程になればむしろ栄誉だろう――この男がそこまでの高みに昇れるかどうかは別として。



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