「雁の翼に(十三)」
咄嗟に、左右へ飛び退った。
が、風鬼がガクッと膝を付く。袖を穂先に貫かれている。舌打ちして、腰の後ろに回していた刀を抜き打ちに槍の柄を切り飛ばす。
頭上の床板が軋み、鋭い声が何か言った。
風鬼は槍の穂を引き抜くと土井の襟首を掴み、額をぶつけそうな勢いで引き寄せた。早口に囁く。
「上の奴は俺が足止めする。焔硝蔵を爆破しろ。火薬の使い方は先生が上だ」
「焔硝蔵?」
兵庫水軍奪取計画の最前線基地総本部たる本丸ではなく、ただの火薬庫を?
直前の激情がまだ尾を引いていた土井はうまく心が働かず、命令口調に反発よりも戸惑いを覚えて、疑問形でオウム返しをした。
「そうだ。必要なものは蔵の一番上の屋根に用意してある。確実に、中身を吹っ飛ばせ」
「何があるんだ」
この中には面白いものがある、と面白くなさそうに言った時と同じ顔をすると、風鬼はくるりと手首を返して土井の襟を絞めた。
「動揺するなとは言わんが、家に帰るまでが任務です。逸りなさんなよ、若僧」
それだけ言って、質問には答えない。初めて聞く風鬼の口調に肺腑をじわりと掴まれるような息苦しさを感じて、土井は声もなく喘ぐ。
行け、と押しやられ、つんのめって踵を返した土井が箱や壷の間を縫って駆け抜ける後ろで、ものが壊れる大きい音が響いた。
焔硝蔵の最寄りから床下を滑り出た所へ居合わせたのは、その音にたまたま足を止めた巡回中の不寝番か、土井を見て立ち竦んだのを当身の一打で沈め置き去りにする。走って来た勢いのまま板塀を蹴ってその上へ跳び乗り、更に跳んで、焔硝蔵の一層目の屋根へ身軽に着地する。一瞬屈めた体を発条のように跳ねさせて二層目の屋根の軒を掴むと思い切り脚を振り上げ、ぐるりと回転して屋根の上へ降り立つ。
短く息をついた。
頭を低くし瓦の上に這って、目を凝らす。
月のない夜空とつやのない濃灰色の瓦の境目――天辺の棟瓦に、白っぽい袋がひとつ、引っ掛かっている。
土井は用心深く近付いて円筒形の袋を外し、口を縛る紐を解き中を検めて、思わず独りごちた。
「学園から盗った備品の残りじゃないだろうな、これ」
紙縒りの火口、火薬入れ、宝禄火矢、油を染み込ませた細縄、ちゃぷちゃぷと音を立てる竹筒の中はおそらく油。剣呑な雰囲気が匂い立つ道具の数々が放り込まれている。
焔硝蔵を目標としたのは風鬼の判断のようだが、いろいろぶち壊すというドクタケの目的には、出城の爆破も入っていたらしい。
袋の中を眺め下ろし、土井は自分の懐に手を当てた。そこには火薬と油を詰めた筒の束と縄、それと火薬入れが忍ばせてある。
かさばって沢山は持ち歩けないから、高性能の火薬と純度の高い油を吟味して作った特別製の手投げ焼夷弾だ。火薬に着火すると筒が破裂して油が飛び散り、そこへ火種が落ちると広範囲に渡って一気に燃え上がる。筒を導火線で繋いで火を放てば誘爆が誘爆を呼んで連鎖的に爆発炎上し、本丸くらいの規模の建物なら、一刻もあれば燃え落ちる。
目標は本丸。学園の方は最初からそう決めていた。
夜を待って土井が出城へ再潜入することは、乱太郎たちが水軍館から帰った後に追って兵庫水軍へ伝えてあった。その連絡と共に「出城が兵庫水軍と忍術学園の両方に敵対するものと判明した場合、縄張りの中で"火事"が起きても良いか」と許可を求めたのに対し、馬借特急便が配達して来た第三協栄丸の返書には了の一字と、追伸として"火事"が起きた場合に兵庫水軍がとる行動が書き添えられていた。
知らぬ間に領内へ出城を造られた悔しさと、それを遥かに上回る峻烈な怒りがひしひしと伝わってくる行動計画に山田は呆れ土井は驚愕し、学園長ですら「なんとまあ」と言ったきり絶句した。
本丸が炎上するのを合図に兵庫水軍はその行動を起こす。そして今となっては土井に火付けをためらう理由はなく、木造の本丸は、うまく仕掛けを巡らせれば全焼させるのはそう難しくない。
一方、耐火・耐爆を期して分厚い土壁を備える焔硝蔵は、内部で爆発が起きれば逃げ場のない強大な圧力が中のものを破壊し尽くし、事によっては蔵丸ごとが内側から崩壊する。大口径の石火矢で外から砲撃するよりも、焔硝蔵を叩くにはそれが一番手っ取り早い。
「鉢合わせしたお陰で本丸と焔硝蔵の両方を一度に潰せる、けど……なあ」
少し落ち着いてみると、一時的に手を組んでいるとは言え、ドクタケの手助けをすることになるのが少々しゃくだ。職業忍者かつ年長者の威厳、のようなものに当てられて、心中を吹き荒らした嵐を強制的に鎮められたことも。
もっとも、どう頑張ったって年齢差を詰めることは出来ないし、戦に明け暮れる城にいながら風鬼は今まで生き延びているのだ。勤続何年かは知らないが、経験や踏んだ場数の違いとそれを元にした判断が持つ否応無しの説得力は、いくら業腹に思ったところで如何ともし難い。
「……利害の一致」
そう呟いて自分を納得させ、瓦を剥がし苦無を振るって屋根板に穴を開ける作業に取り掛かる。数か所にその細工をすると、屋根の端から頭を逆さにして明かり取りの窓の位置を確かめ、袋を担いでもう一度軒からぶら下がった。
撞木のように身体を振って勢いをつけ、窓の桟を蹴り破る。
一層目の屋根へ降り、折れ残った桟を叩き落として鉤縄を引っ掛け、蔵の中へ垂らした縄を伝って滑り下りる。その途端、肌を斬るようなひやりとした金属臭と、饐えたような悪臭を嗅いだ。
が、妙なことに火薬の臭いがしない。不審に思いつつも焔硝蔵の中で火を灯す訳にもいかず、石敷きの床にじっとうずくまって、目が慣れるのを待つ。
とろりと澱んだ闇の底にやがて見えてきたものに、土井は自分の身体がすうっと冷たくなるのを感じた。
下から押し上げられた床板と畳が音を立てて弾け飛んだ。
足を引いて身構えた守将の眼前で一瞬静止したかに見えた畳が、次の瞬間には圧し潰すような勢いでのしかかって来る。更に跳び下がってかわし、短くなった槍の柄を捨て、床の間の前に置いた刀架から二刀を引っ掴む。
畳の向こう側を蹴って後方へ飛んだ影が、襖を突き倒し次の間へ転がり込むのがチラと見えて、素早く立て起こした畳を盾にしつつ守将は腹から声を放つ。
「何奴っ」
柱や障子戸をびりびりと震わせる大喝に応じる声はない。ただ、床に穴が開き空気の流れが変わったせいで蝋燭の火がゆったりと揺れ、書院の中に映る影を奇妙に歪ませる。
手にした二刀を寝間着の帯に挟み、脇差を抜く。
部屋の四隅と中央寄りの書見台のそばに蝋燭の灯る燭台を据えた書院は、部屋のしつらえが見て取れるほどに明るいが、その為に灯のない次の間は余計に暗く見える。だけでなく、わだかまる闇の向こうからは物音ひとつ聞こえず、自然(じねん)にある草木のような淡い気配は薄く引き伸ばされて、人の輪郭らしいものは掴めない。
次の間には中廊下へ出る襖の他に出入口はなく、その襖が動いた様子はない。
と言うことは、いる。しかし、どこに。
無意識に体重を移した右足が鈍く痛んで、守将は忌々しげに頬を歪めた。
その時、書見台を照らす火がフッと消えた。他のものより丈の低い燭台がゆっくりと傾き、円形をした台の足に従って少しばかり旋回してから、堪えかねたようにばたりと倒れる。
畳の上に転がった蝋燭は、灯芯だけがすっぱりと斜めに断ち切られている。
それに気付いて守将が身じろぎしたのと同時に、微かな擦過音が耳を掠める。
左手にある床の間で異様な音がした。ぎくりとして畳の陰から覗いた守将は、槍の穂に腹を貫かれ壁に留め付けられた銅の茶釜を見て、目を剥いた。
その槍は先刻自分が床下へ突き込んだ両刃の素槍だ。
じわっと全身に汗が浮く。襖が倒れて続き間になった次の間から近い順に燭台、茶釜と来て、次はこの畳盾か?
背後には外廊下へ出る障子戸がある。精いっぱい腕を伸ばせば畳に隠れたままでもぎりぎりで手が届く。しかし戸を開けて外へ出る寸前で何かが飛んで来たら?
中廊下を隔てた向こうの広間は本来なら宿直の兵が控える場所だが、せっかく雅に造った「曙光堂」をがさついた田舎者がうろうろするのを嫌って不急の立ち入りを禁じている為、夜間は全員が外の兵舎にいる。目を覚ましているのはその中でも不寝番の四人だけ。虎口の外は言うまでもなく、たまたま「曙光堂」の近くを巡回していなければ、船で鍛えた大声も届かない。
何よりまずいことに、真っ向から斬り結ぶような戦闘は得意ではない。
身辺警護はひとり置けば十分と高を括っていたのを悔やみ、未だ戻らない警護役を心の中で罵倒する。
「あんたは歌が下手なのか。詠む方じゃなくて、謡いの方」
聞き覚えのない男の声に突然尋ねられて、守将はヒュッと息を呑んだ。それを悟られないように、腹に力を入れて太い声を出す。
「何の話か」
「いや、音痴なのかと思って」
低いが、軽い声の出所を探して、上下左右へ忙しなく目を動かしながら慎重に答える。
「歌舞音曲で後手は取らぬと自負している」
「ふうん。でかい水軍にいると、芸事も身に付くのか」
「何者だ。もしや、島からの刺客か」
声が笑った。その妙に乾いた調子は肯定とも否定とも測り難いが、嘲るような色だけはあからさまに透けて見えた。
「へえ、奉公構どころか刺客を出されるほどの重鎮だったのか。そりゃ凄いな。ひれ伏したほうがいい?」
苛立ちを堪えて、守将はもう一度言った。
「何者だ」
「曲者さ」
その五音を発する間に、声がぐんと間近に迫った。
守将は反射的に畳から手を離し、脇差を両手で脇構えに構える。
寸前まで鼻先を押し付けていた畳の上半分が斜めにずれ落ちた。安定を欠いた下半分を蹴倒して大きく前へ踏み込んだ守将は、勢いに任せて水平に脇差を振り抜く。
体重を乗せた一太刀が斬ったのは何もない空間だ。
右足の痛みに身体が泳ぐ。転倒しかけて辛うじて踏み止まった喉元にツンと冷たい感触がして、守将は動きを止めた。
「おっと。振り返るなよ」
頭の後ろで声がした。守将はぐりぐりと目だけ動かし、横目になって、背後から伸びる手甲を着けた腕を見た。
「水軍衆は弓の上手と聞くが、接近戦は不得手か? それとも、あんたが特にヘタレなのかな」
鋭く尖った苦無を右手で守将に突き付け、風鬼は口を曲げて笑った。
無造作に垂らした左手には忍刀を掴んでいる。
次の間を滑り出て片手で逆袈裟に畳を斬り飛ばし、守将の頭の上を前回りに飛び越えて背後を取ったひと流れの動作には、気配も音もなかった。
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