「雁の翼に(十二)」
兵庫水軍と親交のある土井を餌に、第三協栄丸を交渉の場へ引きずり出す。
後半の部分はそう読み取れた。
義侠心に篤い第三協栄丸は、人質が身内の者ならば一家の独立を守るため血の涙を流して非情の決断を下したとしても、部外者の土井を決して見殺しにはできまい。当主自身が交渉の場に現れなければ人質を殺すとでも言われたら、己の身が危うくなることは百も承知で、部下や学園の制止を振り切ってきっと自ら出向いて来る。
総大将の身柄を抑えられては、いくら血気に逸ったところで兵庫水軍に迂闊な真似はできず、兵庫水軍が動けない以上は忍術学園もまた動けない。
手強い二大勢力を封じればあとは好きなように「交渉」できる。
卑怯な手段で屈服させたとしても、兵庫水軍は獅子身中の虫どころではない、獅子を内側から食い破らんとする大百足になるだろう。それすら飼い慣らす自信が守将にはあるというのか。ある、と言うのなら、とんでもない驕慢だ。奸賊め、孤児を取り飼うという言い草はなんだ。そんな濁った目で輝かしい前途など見えるものか。己に都合のいいように真を歪めて映す目など、いっそ抉り潰してしまえば――
「深呼吸」
ひとこと言って、風鬼は土井の手からくしゃくしゃになった紙片を取り上げた。剽げた雰囲気は引っ込め、いくらか危ぶむように土井の様子を窺っている。
土井はぎくしゃくと手を持ち上げて強張った頬をこすった。頭の中にかかった赤い色をした紗を、息と一緒にどうにか吐き出して、考える。
人質が忍術学園の関係者なら、それが教員でも職員でも生徒でも、第三協栄丸を釣り上げることはできるだろう。むしろ生徒の方がより衆人の気を引きやすいし、人数が多くちょろちょろと落ち着きのない一年生であれば、大人で教員の自分よりも余程攫うのは容易い。現にドクタケはうちのよい子の庄左ヱ門を誘拐したのだし。
「なんだよ」
「別に」
風鬼から目を逸らし、もう一度深く息を吐く。
ならば、前半に書かれている内容の方が主眼なのだ。
生徒ではなく自分が標的にされた理由。交渉材料としての人質にするだけではない。兵庫水軍と馴染みがあり、且つ孤児を「飼って」いるのだから良い走狗になる――そう嘯(うそぶ)く狡兎は、一体何をさせようとしている?
煮えたぎる釜に放り込んだ一掴みの豆のように頭の中を思考が跳ね回り、ぼんやりと形になりそうなものを片端から突き崩してしまう。散り散りに舞い飛ぶそれらを見定めようとして、あらぬ一点を見据えて動かない土井をよそに、風鬼は取り戻した紙片をちくちくと細長い蛇腹に折り始めた。
「順序立てて考えてみろよ。俺は今のでなんとなく分かっちゃったような気がする」
聞く? と、連歌の続きでも披露するような調子で尋ねる。
「聞く。話せ」
「先に言っておく。今から話すのは全部当て推量だ。俺自身があんたや『おんちの計画』のことをそうと考えているのじゃない。それと、話が取っ散らかるから、途中で口を出すなよ」
勢い込む土井を軽く牽制して、折り畳んだ紙をきれいな片結びに結んだ。恭しい手つきでそれを地面に置く。
「土井半助。あんたは、戦のために孤児になった子供を後見している」
取り飼う、の一文を風鬼はさり気なく言い換えた。
「と言うことは、戦のために要らぬ辛苦に遭う子供の憐れを親身に知っている。学園にはそんな子供が他にもいるだろうしな。あんたは大人で忍者だ。どれほどの理由があろうと全ての戦はただの蛮行だ、喜ぶのは武器商人だけだなどと雑なことを言って憚らぬほど馬鹿ではないし、大義や家名、領地、報酬なんかの為に命を懸け、体を張る輩を嘲るほど傲慢でもないだろう。それでも、戦なんかなければいいのにと、きっと一度や二度ならず考えたことがある」
土井は思わずこっくりと頷いた。
低い身分から立身出世を目指して名を売る為に、日々の生活の糧になる日当を目当てに、戦が起こるのを今や遅しと待ち構えている人々がいるのを知っている。人に雇われて戦働きをする、傭兵稼業で暮らしを立てる者たちがいるのを知っている。戦闘で壊された町や村、法や制度や秩序が、新たな支配者によってより良く整備し直された例を知っている。
けれど、戦で得るものと失うものとを較べる天秤の傾きは、決して万人に等しくはない。
風鬼はその反応に取り合わず話を続ける。
「だから、天下統一を果たしこの日ノ本の争いすべてを終わらせるという目的を知れば、みなしごをいとしむこと一方ならぬ土井半助という男は、必ず自分たちに賛同する。しない訳がない。寧ろするべきだ。初めは人質という形をとっても、ひとたび自分たちと揆を一にしたならば、兵庫水軍の頭を説きつける為に良く働くに違いない。何故なら、」
その行動が天下統一の端緒となり、可哀想なみなしごを生む厭わしい要因を、即ち戦を失くすことに繋がるのだから。凶暴な力に翻弄されるばかりの、か弱く不幸な子らを救うことになるのだから。
その目的にはどこからも文句の付けようがない。まさしく正義だ。やり遂げた者は確実に英雄だ。そこに異見など存在して良い筈がないのだ。
「――と、ここまでが建前だ」
呼吸が止まったように身じろぎもしない土井をよそに、風鬼は片結びを拾い、端を折り込んで歪な籠目の形を作る。
己を狩りに来た猟犬を、狡いうさぎは弁舌を弄して自分の使い走りに変えた。
真正直な走狗の説得が総大将を動かすか否かは、だけどそれほど問題じゃない。
「兵庫水軍の連中は易々と丸め込まれるほどやわじゃないって、さっき自分で言っただろう。仲の良い先生がどれほど熱心に説いたところで、総大将は決して肯うまい」
そしてそれはきっと、小領主はともかく守将にとっては想定済みだ。
「まかり間違って総大将が調略に掛かればそれで良し。掛からなくても、忍術学園の先生が侵入先で囚われたあげく兵庫水軍に敵する勢力に靡いたと知れたら、関係各所には結構な衝撃だ。忍術学園を扇の要にして繋がるあちこちで互いの関係に動揺が起こる。ひとつの勢力の中で意見が割れて、内部分裂だってしかねない」
佐武の鉄砲隊、加藤村の馬借衆、堺の豪商福富屋、砲弾研究家の多田堂禅、各地の城や忍者隊、公家、寺社、土豪、地侍、武芸者、浪人、町衆、その他諸々。
籠目をくるくる弄びながら一本調子に挙げ連ね、その続きでするりと言う。
「俺が思うに、あんたにやらせようとしている役目は走狗と言うより、千丈の堤にせっせと穴を穿つ蟻だ」
「……蟻、だと」
「忍術学園は兵庫水軍と懇意だった。なのにあっさり敵方へ転ぶような人間が、今まで味方の顔をして自分たちに親しんでいたのか。裏切り者はそのひとりだけで済むのか。そんな教師を擁していた忍術学園とは、本当に信用できるのか? 学園と親しいあの組織は? あの人物はどうなのだ? あんたの行動と存在が疑心暗鬼を呼び、忍術学園の組織網に連なる諸勢力に亀裂が生じたならば、兵庫水軍を取り巻く連合も弱体化する。そうしたら後は後詰のない籠城戦と同じさ。兵庫水軍に対して、力任せの無理押しがずっとやり易くなろうぜ」
天下統一を果たし戦を無くすという「計画」の建前に魅了された土井に、第三協栄丸を説得させる。同時に、忍術学園の教師が寝返ったぞとあちらこちらへ吹聴する。信頼で強固に結び付く者同士の間にぽつりと開けられた穴から猜疑と不安が漏れ出し、いつしか蜘蛛の巣のようにひびを入れて、その関係性を決壊させる。溢れ出した奔流の中で諸勢力は押し流され、捩れ、ぶつかり合って、ばらばらに四分五裂する。
その隙を衝いて兵庫水軍へ取り入り小領主の軍門へ降らせ、兵庫水軍が支配する土地や海、水上での利権、軍の総指揮権を簒奪し、精強な軍勢を我が物として、天下統一を目論む「上様」の羽翼となる。忍術学園の連携から外れた有力者をそこで拾えれば尚のこと儲けものだ。
そしていずれ起こるかつての主との直接対決を制し、晴れて「上様」が天下を取った暁には、その下で水軍軍団長となって思うがままに権勢を振るう。
この日ノ本から戦を駆逐し現在と将来のみなしごを救いたいという美名に隠れた、それが守将の企む「計画」の実態。
「だが、そこには重大な欠陥がある」
風鬼がそう続けた時、土井はほとんど反射的に口走った。
「学園は変心したわたしを始末する。走狗にも蟻にもなり得ない」
兵庫水軍に、ということは忍術学園にも敵対する勢力へ走った教師を、それが正しいと信じたゆえの行動だったとしても、生かしておくほど学園は甘くない。敵の手の内にある仲間を生きて取り戻すのは難(かた)くとも、裏切り者を誅し置き捨てて来るのは易く、忍者はその業に長けている。
だから口を挟むなって、と風鬼は言わなかった。が、土井の言葉に頷きもしない。ただ顎を引いた。
「なかなか厳しい」
「学園を守る為だ。抜け忍は許されない」
「慕っている先生を殺されたら、それが学園の為だと理屈では理解しても、生徒たちは心底で学園に不信を抱くだろうな。取り返そうとしてくれなかった、助ける道を考えてはくれなかった、と」
すぱりと言い返されて、土井はぐっと言葉に詰まる。
始末するのが当然だと割り切ったとしても、敵に取り込まれるような教師がいたことに失望して、教師陣の正心のほどを疑いだすかもしれない。求心力を失った忍術学園は、雛にも満たぬ若過ぎる忍者が寄り集まっているだけの、烏合の衆に成り下がる。そうなれば、掃いて捨てるほどいる学園を疎む者どもに、たちまち踏み潰されてしまうだろう。
「――けどな、俺が欠陥と言ったのはそこじゃない。あんたの、」
風鬼が腕を伸ばし、指先でとんと土井の胸を突いた。強い力ではないが、不意をつかれた土井は僅かによろめいた。
「心を考えていない点だ」
建前を煌びやかに作ったあまり己の目まで眩んで、まさか拒絶される筈がないと、一言も交わさないうちから手前勝手に確信している。土井が頭から突っぱね、決して受け容れない事態を想定していない。
それ、ダメだろ。
「で、俺は尋ねるが、あんたはどうしたい」
質そうとするものを測りかねて土井は戸惑った。風鬼は殊更な無表情を作り、投げ出すような言い方で付け加える。
「推測通りと仮定して、計画とやらに乗るか、否か」
ほんの一瞬触れられただけの場所が、焼け火箸でも刺されたようにカッと熱くなった。激しく首を横に振る。
「乗らない。乗る訳がない」
「何故、乗らない? たとえそれが建前でも、天下統一が成れば、確かにこの国から戦が消えるんだ。将来存在したかも知れない孤児が大勢救われる。その人数は、これまでの乱世の中で生まれた孤児の数よりもずっと、ずうーっと多いかも知れない。たとえ史上に例がないほどの圧倒的な武力が振るわれて、その為に大きな犠牲を払ったとしても、その後には泰平の世が来るんだぜ」
「平和な統治とは限らない。民草を絞る圧政を敷くかもしれない」
「"上様"が余程のうつけ者でなきゃ、天下を統一したら、真っ先に日ノ本の国全体の地力を底上げしようとするはずだ。内乱が収まれば今度の仮想敵は明や南蛮といった外つ国だからな。まず手をつけるのは治安の維持と流通の確保、ちょっと余裕ができたら産業の開発と奨励、それに街道や海路を整備して、人やモノを行き来しやすくする。そうやってガッタガタに偏った金の巡りをなめらかにして国全体へ行き渡らせ、富の奪い合いが――国の中で戦をする理由が存在しない状態を、まずは磐石に作ろうとするだろう。恫喝と締め付けだけじゃ人は遅々としか動かない。いくらか制限は付いても、ある程度の自由を許しておけば、人や物の往来が活発になって各地に活気が生まれ、あらゆる物事が発展し豊かになる。あっちもこっちも万々歳だ」
淡々と反論する風鬼の無感情な口調に、何故か怯えにも似た焦燥が土井の胸にじわりと広がる。
全ての人が安穏に暮らせる将来よりも今の自分の生活が大切か、これから生まれて来る数多の子供を災禍に巻き込ませ、嘆き悲しませて構わないというのか、お前は人でなしだと責められている錯覚を覚え、それを振り払いたくて声を強くした。
「お前はわたしに乗れと言うのか。そうした方がドクタケに都合が良いからか」
「俺が言いたいことは何も無いよ。当て推量だと最初に言ったろ。まあ、あんたの心がどこにあるかは、この後の為に知っておきたいな」
八つ当たりを平然と受け流し、風鬼は折り紙の籠目をポイと地面に放る。その小さな動きに煽られて、短くなった灯火皿の芯がぐらっと揺れる。
勝手に鳴りだしそうな歯を、土井は噛み割るほどに食いしばった。
夜は眠り朝は目覚めることに何の憂いもない、人々は上下の別なく誰もが意欲と希望に満ちている。満ちることが、当たり前にできる。
天下統一の後には、必ずそんな世の中が来る――のか?
代償がいかに大きくとも、それを払うだけの価値のある新しい歴史が作られようとしているのだとしたら、理も知もなく感情で拒絶する自分こそが、実は視野の狭い愚か者なのか。変革に伴う痛みを嫌って、現状に不満を持ちながらもそこへ安住する臆病者なのか?
決して同心しないのだから最初から計画は破綻している、と風鬼の話を遮ることが出来なかったのは、少しは惹かれるものがあるからじゃないのか?
瓶の後ろから現れたねずみが、人間の姿に驚いたのか、短く鳴いてさっと身を翻す。
その鋭い動きに弾かれたように言葉が口をついた。
「それでも、嫌だ」
寄る辺を求めて動いた両手を、痛いくらい握り締める。
「何が、嫌だ?」
短く問い返されて、まとまった考えもないまま急き込むように言葉を接ぐ。
「目的はそうだとしても、その為の手段はやっぱり戦だ。わたしが計画に乗ってそれが動き出して、建前を押し通そうとしたら、全ての戦を終わらせるための戦が、途方もない数や規模の戦が、必ず起きる。その戦は何年続くんだ。五年か? 十年か? 百年か? その戦の間にだって孤児は生まれる。今はそうじゃない子供たちがそうなってしまうかもしれない。国の行く先を慮って、後の世をもっと良いものにしようと力を尽くすのが間違っているとは思わない。だがそれは武士の理屈だ。甘んじて先々の泰平の礎になれと今の時代を人柱にする権利が誰にある? 手の届く範囲のもの、すぐ目の前にあるものをこそ守りたいと、すり潰させるまいと、庶人が藻掻く事の何がいけない? "上様"が統べるこの国がどれほど良いもので、泥沼を屍で埋め立てその上を進むのが一番の早道だとしても、平和な世を享受する将来の誰かの為に、今生きている人間が踏みにじられるのは、」
適当な言葉を探しそこねてそこで言い淀む。割に合わない、甲斐がない、報われない。違う、そんな傍観者の言葉じゃない、わたしはそれが、
「気に入らない」
零れた言葉に、自分で驚く。言ってしまってから、あまりに自分本位なその言葉が最もしっくりと収まるのに言い様のない後ろめたさを感じ、強く唇を噛む。
それまで表情を消していた風鬼が、ふと笑った。
「酷い顔だな」
嘲笑ではない。むしろ好意的でさえある。しかし相変わらず善良には見えないその笑みが、やけに癇に障った。
「生きたいとか、生かしたいとか、そういう当たり前の欲を持つのはそんなに悪いことのか」
「俺に聞くな。死んだ後に閻魔庁で聞け」
怒気をかわすように、風鬼は地面に引いた相関図に目を落とす。「上」の字の上に置いた籠目をピンと指で弾くと土が崩れ、字は意味のない歪な線になった。
「天下統一の旗印を取り払えば、"上様"とやらはそこら中に跋扈する侵掠者の一人で、小領主と守将はその追従者に過ぎん。正義の執行者なんぞじゃない、俗にまみれた唯の人間だ。あれ、そう言ったらうちの殿も俗物ってことになっちゃうな」
「……お前がわたしの立場だったらどうする。乗るか? 拒否するか?」
「俺なら判断は殿に投げる」
なぜなら悲しき城仕えの身、ドクタケ城の利が第一だから。
「リーマン忍者はそんなもんよ。……睨むなよ。あんたは嫌なんだろ。十分な理由じゃないか。好きだ嫌いだってのは単純にして最も強い動機なんだぜ」
だけどまあ、と風鬼は頭を掻いた。
「ドクタケ忍者を人質にしても兵庫水軍は痛くも痒くもないから、その仮定自体が無意味だけどさ。俺だって、うちの子らを血河に沈めるのはごめんだよ」
合いの手のように、じじ、じ、じ、と灯芯が音を立てる。
もう火が消える――と土井が目をやったその時、頭上の床板を突き破って槍が閃いた。
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