「雁の翼に(十一)」


 居館の床下を飛び出した黒い塊が、チッと鋭く鳴いて庭先を走り抜ける。
 回廊を歩んでいた守将は反射的に足を止めた。
 猫ほども大きい、あんなの見たことがないと兵たちが気味悪がっていた、南蛮から輸入した荷に紛れ込んでいた大ねずみだ。素早く地面の上を横切り、長い尻尾の影がたちまち厩の中へ消える。
 馬が入る前に、ねずみに巣を作られてはたまらぬ。思わず口元が歪む。
 と、左手の篝台の火がバチバチッと大きな音を立て、続けざまに橙色の火が爆ぜた。
 守将はサッとそちらへ視線を向けた。そのまま目を八方へ転じ辺りを警戒する。が、火花が飛び散ったのはほんの一瞬で、またすぐに静けさが戻る。
 ――その静寂の奥から、小さな音が転がって来る。かろん、かろん、と次第に速度を増して――頭の上を――
 屋根!
 はっと頭上を振り仰いだのと同時に、軒先から何かが転がり落ちる。
 壁際まで身を引いた守将は手燭を持った腕を伸ばし、用心深く、地面の上で音もなく跳ねて止まったものに目を凝らした。
 松かさだ。
 海が見えるよう、また海からは見えぬよう松林に隠して拓いた場所だから、敢えて伐り残した大木の枝は今も「曙光堂」と名付けたの居館の屋根にかかるほど伸びている。守将はそろそろと沓脱石から庭へ下りると、曙光堂へ向き直り、頭を反らせるようにして屋根の方を見た。頼りない星明かりが瞬くばかりの新月の夜空は質量さえ感じさせるほどに黒く、しんと静まり返っている。
 風はない。深夜とて烏や鳶の姿も見えない。
 松かさは油を含んでよく燃える。屋根を転がって篝火へ飛び込んだか。だが――何故、今、松かさは落ちた?
 守将は手燭の火を吹き消すと、ごくゆっくりした動作で沓脱石へ戻り、静かにその上へ足を掛けた。


 書類、書状、地図、海図、陣形図、建物の見取り図、どこかの城の城郭図、船の設計図、なんだか分からない武器の構造図らしきもの、それらの下書き、思い付きを書き留めたような反古紙の束。
 忍び込んだ「明かり障子のある部屋」は、付書院や違棚を備えた古式ゆかしい書院造を模していた。その小奇麗に整った書斎を無遠慮に嗅ぎ回り、見つけ出したそれらしいものを床下へ持ち込んで地面に広げ、小さな灯火を頼りに片っ端から目を通していく。
 その量と、その内容が示すものの両方が、二人を沈黙させた。
 大量にある同じ筆跡の書き付けは守将の手になるものか、よくもまあと恐れ入りたいほどの筆まめぶりだ。決まった相手とやり取りしているらしい書状の中に、質問への回答や意見・要望を述べる文章はあるが、相手が寄越した書状が一向に見当たらないのは、読んだ後に破棄するか返却しているのだろう。相手への呼び掛けは「御殿」に終始し、個人が特定できる具体的な名前や官名は、自他共に慎重に避けられている。風鬼が持って来た情報から「御殿」は山あいに城を持つ小領主と推測できるものの、守将自身の名は分からない。
「小領主がこの出城の主で、守将を任されているのが、新参で元水軍の浪人武将」
「出城の守備を任されたと言うより、住居を与えられた感じだな」
「表向きは家臣に加わったように見せて、実際は客将扱いなのかも知れん。守将は小領主に対して、それほど謙っていない」
 土井が土の上に指で相関図を描きながら言うと、風鬼も頷いた。その首を捻る。
「素性の知れている登場人物が二人、で、そうすると――この"上様"ってのは、誰なんだ?」
 頻繁に文中へ出て来る「上様」は、敬語の使い方から察するに「御殿」よりも余程格上であるらしい。ここに来て浮上した新たな第三者だ。その人物は水軍を未だ持たないが、熱烈に欲しがっている、と記されている。

 そして守将は、「我に兵庫水軍を取り込む方策あり」と小領主に持ちかけている。

 兵庫水軍を傘下に入れて「上様」に付けば大歓迎されるでしょう。その上、海戦で華々しい戦績を挙げて見せれば、多大な恩賞と重職を与えられて、天下平定の成った暁には栄耀栄華は思いのままですよ――と、小領主の野心の火に景気よく薪を放り込むように、書状の中で繰り返し熱心に説いている。
 その為にも自分が御当家の水軍軍団長となり、兵庫水軍には日の本一の働きをさせて、「御殿」の名を津々浦々へ轟かしめてさしあげましょう。
 いざ共に、栄達の道を行こうではありませんか。

「胡散臭いこと、この上ないな」
 積み上げた書き物の小山をうんざりした様子で眺め、風鬼が言う。
 内々のやり取りでさえ名をひた隠しにしている一方で、大量の文書や走り書きまで丁寧に取って置くのは、出世を極めたその時に一代記を書く為の資料か、はたまた後世の歴史家に史料を提供してやるつもりか。どちらにしろ厚かましい。
「悪徳高利貸しの口上を聞いている気分だ。こんなので明るい未来が見えるのか」
「見たいと思っていると見えるんだろう。天下統一の首魁は小領主でも守将でもない、この上様とやらいう御仁だな」
 言いながら、土井は書状に書かれた文字をピンと指先で弾いた。
 それが守将の吹かしでなければだが、どこの誰とも知れないその人物は、中国地方一帯を平らげた安芸の領主に対抗し得る実力の持ち主であるようだ。ならば確かに天下取りは現実味のある目標たり得るし、本気で実行しようとするならば、版図を拡げる過程で必ず安芸の領主とも衝突するだろう。
 旧主打倒の機会を窺って雌伏していた守将はそれに便乗することを企てたらしい。
 どんな伝手を辿ったのか「上様」に近い人物と繋ぎをつけ、名門水軍でひとかどの武将と謳われた経歴を武器に売り込みをかけようとして、そこで躓いた。
「旧主からの感状の類も無しに身ひとつで出奔したのなら、当座の身分は、自称すごい水軍武将で住所不定無職なただのおっさんだからな。不審者扱いで門前払いだろう」
「せんせー、言い方キツいです。俺、城仕えだから、そうそう他人事じゃないんだよ」
「先生って言うな気色悪い。ともあれ、小領主に仮仕えして主持ちの体裁を作ったってところか」
 自ら上昇する器量はないが今の境遇に満足してもいない小領主と、自分を追い出した旧主に仕返しをしたいが地位がない守将とで、利害が一致したのだろう。
「うがって見るならば、守将はいずれ水軍ごと小領主から離反して、"上様"の直臣として家臣団に食い込むつもりでいるのかもしれん。踏み台にされる小領主こそいい面の皮だが」
「それじゃあ『おんちの計画』って、歴史を紡ぐとか大仰なことを言っといて天下統一をするのは別に水軍崩れ当人じゃなくて、その実態は『一時のテンションで失職したおっさんの再就職計画』か」
「……そう言っちゃうと身も蓋もないな」
 海際の湿気を嫌ってか、床を高く作ってある本丸の床下は、空間の有効活用とばかりに封をした瓶や箱がごろごろ置かれている。大きな木箱に寄り掛かっていた風鬼は両手を組んでうんと前へ伸ばすと、コキコキと首を鳴らした。
「まあ、"上様"の正体はとりあえずさて置き、」
「さて置くのか」
「小領主と守将の目的は知れたな。兵庫水軍に同盟を持ちかけて対等な協力関係を結ぶことなんぞじゃなく、兵庫水軍の指揮権まで掌握して、臣従させることだ」

 それでは、それを可能にする『計画』の内容とは何だ。

「兵庫水軍の総大将に、嫁さんはいなかったよな」
「小領主の家中から姫を嫁がせるのか? いくらなんでも、その程度のことに人質はいらないだろう」
「人質を取って脅しでもしないと如何ともし難いアレな姫様なのかもしれん」
「あれ、って……」
 小領主の実子の中にアレな姫しかいない、あるいは男子ばかりで姫がいないとしても、親戚や家臣の娘を一旦養女にしてから輿入れさせれる手もある。嫁ぐ娘は色々な意味で気の毒だが、婚姻を持ちかける程度なら、同盟のやり方としてはだいぶ穏当だ。
「御家乗っ取りの常套手段なら、養子の強制もあるな。手の者を押し込んで親子関係を作ってしまえば、現当主の身を害するなり隠居を強いるなり、家督を奪うやり方はいくらでもある」
「それも無いだろう。総大将に嫡子はいないが――隠し子の類もいないと思うが、よく出来た弟がいる。当主代行をしていたこともあるし、総大将の身に何かあれば、おそらくその弟が家督を継ぐ」
「そっくりなのがいたな、そう言えば。確か兄貴と年頃は近いな? 総大将と後継筆頭の弟の両方へ身内を縁付けようとする可能性、も有りか」
「たとえ無理矢理に奥方や養子を押し付けられても、あっさり丸め込まれるほど本人も部下たちもやわじゃない。寧ろ、送り込まれた者を兵庫水軍の気風に染め変えてしまうだろうさ」
「あれ、弟の方も独身だったっけ?」
「さあ。奥さんの話を聞いたことはないな」
「酒売りのお嬢さんもある意味アレだった」
「話題をひとつに絞れよ。それと、その話はやめろ」
「あれはなんだな、他人の化粧道具を借りたんだろ。白粉と紅の色が肌に合ってないから、化粧の仕方自体は手慣れてるのに、なんか変な感じになるんだよ。この前の市で秋の新色ってのが売り出されて――お」
 どうでもいいことを呟きながら紙の束を繰っていた風鬼の手が止まった。それに気付いて顔を上げた土井の眼前に、一枚の紙片が突き出される。
 ごく短い文章は、しかし爆弾だった。

  忍術学園教師土井某之事
  ひやうご衆に馴れ且みなしごヲ取飼ふ故に
  屹度よき走狗と成る事うたがひなく
  又 ひやうご頭に於いては
  殊に情のあつければ
  此透波ヲ釣餌と為スに如くは無シ

「人質の使い道が立ったな」
 思わず紙片を握り潰した土井に、しゃらっとした口調で風鬼が言う。




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