「終わらない夢をみたんだ」
ここ、誰もいないんだろうか。
たった一人、廊下の真ん中につっ立って考えている。
左右にはのっぺりした白い壁がずっと続き、右手の少し先に濃いクリーム色のドアがあって、それだけなら病院に似ているけれど、ドアの上部には「ホームチーム控え室」と書かれたプレートが張り付いている。白っ茶けた光が溢れる廊下は視力2.0の目を凝らしてやっと端が見えるほど長く、その両端はぐうっと大きく湾曲して回廊のようになっている。じりじり音を立てているのは天井に等間隔に並んだ細長い蛍光灯の列だ。
今どき蛍光灯って――じゃなくて、異様に間延びしていることを除けば、見覚えのある光景だった。
ホームスタジアムのスタンド下。ミックスゾーンの先の、控え室へ続く廊下だ。
ああ俺は夢を見ているんだと、頬をつねるまでもなくストンと理解する。最大収容人数7万人のこのスタジアムにはもう1年近く来ていない。トップチームに帯同しない選手は試合日も練習があるのだから。
それにしても変な夢だと、あまりの静けさに戸惑いながら考える。自分の鼻息ばっかりやたらに聞こえるような気がして、普通に呼吸するのもなんだかやりづらい。
きょろきょろ見回しても、自分以外には影一つない。ドアを開けて誰かが出てくる気配もない。そのくせ目に入るものはみんな色鮮やかで、昔のフィルム映画みたいに輪郭がくっきり際立って見える。
シュールリアリズムと言うやつかな。こんな絵を何かで見たことがある。何で見たんだろう? 美術館に行くような芸術的な趣味はないし。どうせなら写真とか、写実画の方が分かりやすくて好きなんだけど――これが自分の心象風景なら、がらんとしてるのも、まあアリかな。
皮肉っぽい思いで自分を見下ろしてみると、ジーンズにパーカーにその上にモッズコートと言ういつもの格好で、足元はこの冬ずっと履いている黒い革製ワークブーツだ。
自分だけがリアル。
アイスブルーとネオンオレンジが格子になった派手な靴紐をぼけっと眺め、そんなことを考える。
「ひっ」
瞬間、髪の毛が逆立った。
それまで気配も何もなかった背後から、右肩を不意に鷲掴みされた。肩の骨に食い込むほどの強い力だ。首の辺りでぜいぜいと早い息遣いが聞こえる。
理性が振り返ってはいけないと警告するより早く、反射神経が働いた。
振り向いた視線の先にはべったりした赤があった。その輪郭は人の形だ。血に染まる顔の中で、白目がいやに目立つ大きい目が、じっとこちらを見据えている。
裂け目のように口が開く。
「ひとごろし!」
怒声に耳を叩かれた瞬間、その声を圧して腹の底から絶叫を放った。
「よーくん、そんな疲れてんの?」
のんびりした声にハッと目を覚ますと、車の後部シートにひっくり返っていた。
運転席の杜崎がバックミラー越しにちらちらと視線を送ってくる。一瞬さっきの血まみれの顔を思い出し腰が引けそうになったけれど、杜崎の童顔には今日作った頬のすり傷のほか、汚れ一つない。
「俺、寝てた?」
起き上がりながら額を拭う。背中にもじっとりと冷や汗が噴き出して気持ちが悪い。
「バッチリ寝てた」
「寝言言った?」
「言ってないけど、さっき、体がびくっとして真横にぶっ倒れた」
「何か叫んだ?」
「叫んでないよ。なに、怖い夢でも見たの」
いやなにそのゴニョゴニョと口の中で呟いて背もたれに深く寄りかかり、思わずピョンと小さく跳ねた。大量の汗を吸ってひんやり湿ったシャツがぺたりと背中に張り付いたからだ。
「なにしてんのさ。落ち着きないな」
「暖房入れてよ」
「入ってるし。汗かいてるじゃん」
「汗が冷えて寒いんだよ」
杜崎が返事をする前にシートの隙間から体を乗り出して温度調節のスイッチをばしばし叩くと、乱暴にするなよと、片手で追っ払われた。もうすぐ売っちゃうんだから、これ。
杜崎がずっと大事にしていたごつい高級外国車は、日の暮れかかった地方都市の平和な風景の中を滑るように走っていく。国道の片側3車線道路も左右に並ぶ建物も、みんな規則正しく整列していて、大き過ぎたり捻くれて歪んで曲がったりもしていない。背中をぴったりシートにつければ、肩を掴まれる気遣いもない。よし。
「後ろで堂々と寝るなよね。俺、お付き運転手じゃないんだからさあ」
ハンドルを切りながら杜崎が口を尖らせる。
「あー。起きてる起きてる」
「なんか気が抜けてるねぇ」
「気なんかもうとっくに抜けまくった。蓋を開けて3日放っておいたコーラぐらい」
「うわ、まずそう」
つまらない冗談に声を揃えて笑いながら無意識に右肩をさすっているのに気が付いて、薄ら寒い気分でその手を下ろした。自分の手の感触さえふと怖くなり、それがまた癪に障った。
厄日だ。
日本国内のリーグに所属するプロサッカー選手は、原則2月1日から翌年1月31日までが契約期間で、毎年11月30日までに次年度の契約に関する通知を受けることになっている。
葭野紘介、よしのこうすけ、プロ4年目の22歳。元U15、U17代表。174センチ65キロの左利き、ポジションは主に攻撃的MF。公式試合全出場数12、総出場時間195分、得点0。
今月末を持って契約が切れ、来シーズンからこのクラブの選手ではなくなる。
新加入選手たちがやって来る前に独身寮を出て行くよう通達されているから住む所も無くなるのが、今のところ一番差し迫った問題でもある。
元々こざっぱりしていた寮の一室は、今はむしろ殺風景という言葉が似合うほど閑散としていて、大きい家具と言えば作り付けのベッドしかない。コレクションケース兼用ガラステーブルと小洒落たフロアライト、キャンバス張りのイタリア製ローソファなどなど、一覧表をクラブハウスの掲示板に貼り付けて「欲しい人はどうぞ」と申し出たら、みんなきれいに無くなった。表の下に「在庫一掃もってけドロボー」と書き足した一文は、誰の仕業かマジックで塗り潰されていたけれど。
この年齢になると奥さんや子どもがいる同世代の選手もちらほらいる。自分にはまだ早いと思うけど、独身寮を独身のまま出て行くのはやっぱりちょっとお寒い。365日かける4年たす閏年の1日、かける24時間、かける60分、その内の195分間が実質的なプロとしての稼働時間だとすると、この部屋は結局、自分の力を思い知るために用意された時限監獄だったのかなあと、ベッドに寝転がって白い天井を見上げながらうだうだ考えた。
2回目の合同トライアウトはあっけなく終了した。
参加者全員を数チームに分けての試合形式でのテストでは2試合目に20分間出場して見せ場なし。自分の言葉でアピールできるマイクパフォーマンスでは、「残念ながら元のクラブを去ることにはなりましたが」と言いたかったところを「僕は捨てられましたが!」とやらかした。
言うまでもなく契約期間満了に伴う円満な退団であって、高卒後に4年間も育ててくれたクラブと揉め事があったわけじゃない。大体、揉めるほど重要な選手でもない。
その結果――勿論、だけじゃないんだけど――年明け前の1回目に続いて、お声掛け一切なし。
各クラブのスカウトが一同に介する合同トライアウトの他、個別にセレクションを行うクラブもある。戦力外通告を食らったばかりの頃は「どこどこで開催する」という情報を掻き集めては同じ境遇の仲間と共に毎日毎日西へ東へ受けに行ったし、1回目のトライアウトは短い試合時間の中で精一杯のプレーをした。
でも、シーズンオフの戦いはある意味、シーズン中よりもよっぽど熾烈だった。
中学・高校の頃の代表歴なんか履歴書に垂れたインクの染みにしかならない。年齢も経歴もバックグラウンドもバラバラな戦力外選手たちがみんな一緒にふるいに掛けられて、ほんのちょっとのめぼしい石だけが拾い上げられていく。あるいはもう一輝きするだけの底力を秘めた石が。
砥石にもならない、ただの石ころなんかお呼びではないのだ。
あんたの実力こんなもんだよというお墨付きばかりが増えていく現状に、昔抱いた夢も希望も、だんだんと灰色にくすんでいく。
夢。夢だったんだよな、プロになるの。
今日の試合で着たシャツやストッキング、泥だらけなんだ。放っておいたら汚れが落ちなくなる。洗濯に行かなくちゃと頭では思いながら、だるくて重い身体はベッドにぐだぐだと転がる。
小学校のサッカークラブの頃から、地方ではちょっと有名だった。中学生で年代別代表に入り、高校は私立の強豪校に誘われて3年間で5回全国優勝した。その間にユース代表として国際大会にも参加して、出場した試合の相手はあんまり強くなかったけれど、点も取った。
プロに憧れ、目標にしたのは自然な成り行きだったと思う。
夢を現実にしたのが嬉しくて嬉しくて、なんでも吸収してやろうと目を輝かせていたのはたった4年前のことだ。途中交代だった初出場は張り切り過ぎて相手と大激突して、気が付いた時は病院にいたという有様だったけれど。
それでも、前に進むことばかり考えていた。山も谷も踏み越えて進めないはずはないと。
しかし飛び込んだ夢の世界は、こちらの成長を親切に待ってはくれなかった。
先輩に当たり負けしないようになったし、キックの精度も上がったし、足も少しは速くなったし持久力もついた。自分の自信が減ったわけじゃない。でも、同級生やもっと年下の選手の中には自分以上の速さで力をつけたやつや、即戦力が沢山いた。
より力のある人間により多くのチャンスが巡ってくるのは当たり前のことだ。
憧れのままにしていれば良かった。
ごろりと寝返りを打って、そんなことを考える。
華やかなだけの世界ではないと分かっているつもりだった。誰かがレギュラーになれば誰かはベンチに下がる。怪我でワンシーズン丸ごと棒に振る事もあれば、一度も試合に出ないまま引退する事もある。そして毎年、日本中で100人近くのプロ選手が戦力外通告を受ける。
次の行き場が無いまま去るチームメイトは勿論これまでにもいて、そういう人たちを3年見送ってきた。自分が見送られる方になるとは考えず、先輩たちは新天地で頑張ってください俺はいつかきっと、と能天気に思い続けていた。
かつての夢は今、途方もない現実になって圧し掛かっている。
憧れのままにしておけば、ずっときれいな夢を見ていられたのかな。
まだ火も点いてないのに、燃え尽き症候群ってやつですかね。
他人事みたいに枕に向かって呟いてみたが、色褪せたストライプ柄の枕はもちろん返事をしてくれなかった。
「話を聞けよ」
ごりごりと金属を擦るような声にぎくっとする。
気がつくと、また夢の中のスタジアムに立っていた。真後ろに人の気配と鉄サビの臭い、そして肩をがっちり捉える骨張った手。杜崎の車の中で見た悪夢のまさに続きから始まっている。
なんてこった、いつの間にか眠っちゃったのか。
「逃げるな!」
脚がびくりと動いた瞬間怒鳴りつけられ、その場に固まる。
「あ、あ、あんた誰だ。俺に何の用だよ」
絞り出す声がガクガクと震える。これは夢だ。早く覚めろ。そう一心に念じながら奥歯を食い縛る。
「俺は」
肩越しに耳を掠める声に、ふと聞き覚えがあるような気がした。
「葭野紘介」
「え!?」
「葭野紘介、だ。お前だよ」
息を呑んだ。
冗談じゃない。こちらを人殺し呼ばわりするこいつが葭野紘介なら、今ここでびびりまくっている自分は誰だって言うんだ。
全身でもがきながら肩に乗った手を振り払い、勢い余ってつんのめりながら振り返る。
真っ先に目についたのはユニフォームだった。
サイドからウエストに掛けてフラッシュカラーのメッシュが切れ込んだ、少し以前のモデル。胸スポンサーの下にある「37」は、プロ入り当初につけていた背番号だ。
そして、その昔のユニフォームを身に着けているのは、頭から血を流した自分自身だった。
「うわああっ」
そこまで見て取った後、叫びながら長い廊下を駆け出した。
どこに続いているのか分からない。が、血まみれの自分と同じ空間にいるのはもっと耐えられない。
「逃げるなよ! 逃げるなって、待てこの人殺し!」
追いかけてくる声、そして足音。スパイクのポイントが床を叩く耳慣れた音ががらんとした廊下に響く。
逃げるなったってこの状況、逃げないやつがどこにいる?
夢の中で走るともどかしいくらい前進できない、まさにその状態だった。床はしっかり固く、ブーツの底は確実にそこを蹴っているのに、一面にマシュマロを敷き詰めた上で足踏みをしているみたいにふわふわして進まない。
「待てってば!」
声はどんどん近付いてくる。
その時、行く手に現れた引き戸のドアに飛びつき、しゃにむに手を掛けた。
本物のスタジアムと同じ配置ならピッチに出る階段へ通じているはず。
がらがらっと音を立てて磨りガラスのドアはあっさり開き、その向こうには低い階段と、やたらにだだっ広い空間が広がっていた。
夜?
一瞬、立ち竦んだ。無人のピッチ、無人のベンチ、無人のスタンド、チームフラッグの掲揚も大型スクリーンの点灯もない。が、夜空に煌々と灯る照明は、緑の芝をつやつやと鮮やかに照らし出している。
きれいだ。
そんな場合じゃないのに、そんなことを考えた。
夢の中で変な言い方だけど、夢みたいにきれいだ。――まるで主役の登場を待つ舞台みたいに。
かんかんかん、と背後に迫る硬い音で我に返った。
振り向きざま、磨りガラスの向こうに走って来る自分が見えた。白目の中で動いた黒目がこちらを捉え、血に汚れた手が前へ伸ばされる。
慌ててドアに飛びつき渾身の力を込めて横へ引いた。
レールを滑って壁にぶつかるパアンと言う音が高く響く。ついでに鍵を掛けてしまいたいけど、やり方が分からない。
無我夢中で競技エリアへ飛び出した。肩越しにちらりと振り返ると、向こう側からガラスに赤い手形が押し付けられているのが見えた。
「うわ」
悲鳴を飲み込み、体を丸めて無闇に駆け出す。本当は一周400メートルのものが今は一体何百メートルあるのか、陸上トラックを横切りピッチを駆け抜け、外部へ続くゲートへ向かってひた走る。
逃げなくちゃ。スタジアムの外へ。ここから外へ。逃げろ、逃げ出せ、急げ急げ急げ。
「やめろ、そっちへ行くなっ」
ぎくっと背中が強張った。血だらけ旧ユニフォームの自分は追いかけて来てはいない。距離も大分開いたはず。なのに、声は耳元で聞こえた。
「うわぁーっ!」
両手で耳を塞ぎ肺活量の限りに叫んだ。それに重なって、もう一つの叫び声がした。
「俺を殺さないでくれぇ!」
段ボール箱に腰掛けてボーッと窓の外を眺めていると、ごつんと向こうずねを蹴っ飛ばされた。
「足、どけて」
頭にタオルを巻いた杜崎が片手にゴミ袋を持って片足を上げている。
杜崎の部屋は大小の段ボール箱や衣装ケース、ガムテープがとっ散らかって足の踏み場もない。ベッドの上には服が積み上げてあるから、座る場所と言えば封をした段ボール箱しかないのだ。
「座ってるだけなら手伝ってよ」
「俺だってまだ引越しの準備終わってないもん」
「じゃあ部屋に戻ればいいじゃない」
むうと口をつぐむと、杜崎もそれ以上何も言わなかったが、居座るのを認めたというより存在を無視する事に決めたみたいだった。一人で部屋にいるのが怖いんだと言ったら、杜崎はきっと鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするだろう。
枕に突っ伏した自分の悲鳴で目を覚ました時、トライアウトから帰ってきてベッドに転がった時のままの格好をしていて、早朝と言うのもまだ早いような時間だった。ごろごろぐだぐだから本格的に眠り込んでしまったらしい。
その結果があの悪夢。
眠気はまだ残っていたけれど、もう一度眠ったらまた夢の続きを見るような気がして、たまたま手元にあったメントールタブレットを噛んで強制的に起きていた。そのせいで、日の高くなった今も頭の芯がぼんやりぼやけて、うっかりすればとろとろと眠り込みそうなのだ。
「いい天気だね」
しばらく黙って作業した後で、ぼそりと杜崎が呟いた。
今日は少し寒気が緩んだらしい。風もなく、冬晴れの空にやわらかそうな雲がぽっかり浮かんで、陽だまりはいかにも暖かそうだ。窓から入ってくる空気の匂いをかぐような表情で、杜崎は外を眺めている。
顔のパーツ全部の線がクレヨンで書いたみたいに柔らかい、優しい顔立ちだ。
だけど心は強い。
昨日のトライアウトで良い結果がなかった杜崎は、プロを辞めて大学に行くことを既に決めている。
杜崎悠人は一学年下の21歳だ。ポジションはMFまたはFW、公称167センチ実寸164センチ、52キロの右利き。プロ入り前から俊足のテクニシャンと評判が高く期待も大きかったけれど、怪我がちであまり活躍できないまま3年で戦力外通告を受けた。
クラブユース出身の杜崎は、経験を積むためにレンタル移籍してみたらとか、海外クラブに練習生で参加してみたら、という話もなくあっさり契約終了という点ではそれこそ「クラブに捨てられた」と言っても言い過ぎじゃない。だけど恨みっぽい言葉は一言も吐かず、「対外的な知名度は低いし体も小さいし怪我持ちだし、もしかして誰かが気に掛けてくれたらラッキーってくらいのつもりだったんだ」と、帰りの車中で屈託なく言っていた。
「ハルは、大学に入ったらさ」
「うん?」
「何やるの」
「体育の勉強をしたいなあと思ってる」
「体育の先生でも目指す?」
「も、いいけど、運動生理学とか運動科学とかそういう方面がいいんだ。だから、なるとしたらフィジカルコーチかな。俺、今まで怪我をしたらそれを治すことは考えてたけど、この3年でまず怪我をしないようにするのが一番大事なんだって思い知ったよ。だからそういう方針のフィジコになりたい」
「サッカーは?」
「続けるよ。でも部活は無理かな。サークルとか地域の草チームとかでさ。プロでは通用しなかったけど、やっぱり好きだからね」
「ふうん。偉いね」
ごく自然にそう言ってから、「何を偉いと言ったんだろう」と自分で考えてしまった。
経験に学び将来を考えている。次の行く先を決めている。これから1年間、改めて受験勉強をするガッツがある。力不足を言い渡されながら、まだサッカーをするつもりがある。諸々ひっくるめての感想だけど、杜崎は目の前で手を叩かれたような表情になった。
「別に偉くないよ」
きょとんとした顔で言ってくれる。
「しっかり考えてるじゃん、色んなこと」
「そりゃ考えるよ。自分のことだもん」
耳が痛い。
「よーくんはどうするの。まだ粘る?」
「粘……れのるかなぁ、俺」
情けなくもあやふやな返事をする。
ちょっと瞬きした杜崎は、ゴミ袋を床の上のわずかなスペースに置いて、すぐそばの段ボール箱に腰を下ろした。タオルを外すと、蜂蜜色をした長めの髪がばさっと顔に落ちる。
「迷ってるだろ」
ずばり切り込まれ、一瞬たじろいだ。言い返す言葉を探している間に杜崎は容赦なく続ける。
「俺、小学校からずっとここのクラブにいたから、プロの選手はよーくんより長い間見て来てるよ。だから多少は他の選手を見る目が厳しいと思う」
自分自身の見通しは甘かったけどと、少し笑う。
「贔屓目抜きで、よーくんは力のない選手じゃないと、俺は思う。根気良く探してアピールし続ければ欲しがるチームは絶対見つかる。でも今は探すのに飽きちゃって、どうでも良くなってきてるだろう」
上位リーグでのプロ契約にこだわるか、下部リーグでパートタイマー兼業選手になるか、あまりメジャーじゃない海外リーグに挑戦するか。問題は既にそこではなくなっている。
サッカーを続けるか、否か。
続けられるなら待遇は二の次と思えるほどの熱が、まだ自分の中に残っているのか。すっぱり諦めて第二の人生に向かうべきなのか。
ゆらりゆらりと揺れるシーソーの上を行きつ戻りつしながら、どうにも決めかねて――決めることを半ば投げ出して、ただの惰性で歩き続けている。
「ハルちゃん厳しいなぁ」
思わず漏らすと、杜崎はひょいと真面目な顔をした。
「だって、今のよーくんは危なっかしい」
鏡で顔を見てみなよ。もうギリギリですって書いてあるから。そう言われて、今朝は奥二重の目が二重になってしまっていたことを思い出す。
「この顔は寝不足のせいだ」
顔に手を当てながら言い訳して、ごしごし目を擦った。
「嫌な夢でも見たの」
「最低最悪のC級ホラー」
「あー。それはやだね」
「うーん……」
夢の内容を話しても杜崎なら笑わないだろうし、一緒に怖がってくれたら少しは楽になるだろうか。
そう思って、話してみた。
がらんどうの夜のスタジアム。4年前のユニフォームを着た血まみれの自分。痛いぐらいに肩を掴む手。ガラスに映る赤い手形。殺さないでくれと言う叫び声。
「それ、生霊?」
杜崎は目を見張り、一言そう言った。
「それとも、ドッペルゲンガーって言うんだっけ、自分と同じ顔をしたお化け。それを見たら近いうちに死ぬってやつ」
「縁起でもないこと言うなよなあ」
「自分で自分に向かって"人殺し"って。穏やかじゃないね」
「今のとこ、自殺願望はないんだけどな」
「あるって言ったらぶっ飛ばすよ。でも、血だらけってことは、ドッペルくんはよーくんに殴られるとか刺されるとかしてるのかな」
「さあ? そいつに何かした覚えはないし、夢の中の俺はナイフも何も持ってない」
杜崎は真剣に考え込むが、喋れば喋るほど作り事っぽくなる話に「だからあれはただの夢だ」と再確認できて、話してしまったこちらは大分ほどけた気分になった。眉をしかめて腕組みをする杜崎をよそに、ばさばさ長いブロンズオレンジの前髪を引っ張り、就職活動するんだったら切って染め直さなくちゃなあなどと考える。
「あれ」
何気なく両手で髪を後ろにとき流すと、それを見ていた杜崎が声を上げた。
「おでこの右側にハゲがあるよ。え、ストレスで……」
「昔の傷! ハゲてない!」
普段は前髪で隠れている額に手をやる。せいぜい3センチくらいの長さの針で線を引いたようなへこみが指先に触れる。今はもうはっきり思い出せなくなったデビュー戦で、相手と頭からぶつかった時の名誉の負傷だ。
「ドッペルくん、恨めしや〜って感じだった?」
「恨めしい……恨めしいって言うよりは、なんか必死だったような感じ」
待て、話を聞け、逃げるな! 追いすがりながら訴える声は、いやいや思い出してみれば、相当切羽詰まっていた気がする。
「ふうん。じゃあ、ドッペルくんはすごくよーくんに伝えたいことがあるのかな。今度はじっくり話を聞いてみれば?」
「そう言うけど嫌なもんだぞ、双子でもないのに自分と同じ顔をつき合わせるのは。しかも血だらけ」
「いいじゃない。夢なんだから」
その夢を見るのが気が進まないんだと言う代わり、「じゃあ怖いから一緒に寝てくれ」と言ってみたら、杜崎は目を剥いた。
「冗談だろ?」
当たり前だ。
三度目の夢はピッチの上から始まった。
照明が静かに照らすピッチに立つのは自分だけだ。見回しても相変わらず人っ子一人いない。
「ドアを閉めたからかな……」
メインスタンドの下におっかなびっくりで目をやる。
足音も叫び声も、血の臭いもしない。少し迷い、腹を決めて息を吸い込むと、声を張り上げた。
「なあ。話ってなんなんだ?」
わあん、とこだまみたいに響く。
メインスタンド側のサイドラインとハーフウェイラインの交点、交代選手が控えるポイント辺りまで用心しいしい近付き、もう一度呼びかける。
「俺は何もしていないだろう? どうして俺を追いかけ回すんだ? 人殺しって、どういうこと?」
残響が消えるまで待っても、返事はない。耳が痛いほどしーんとしている。
が、不意に右手の方がぱあっと明るくなった。
『MF 14 相原 一央 → MF 37 葭野 紘介』
大型スクリーンをめいっぱい使った派手なアイキャッチに続いて、でかでかと文字が表示される。
あっけに取られて見詰めていると、スクリーン下のゴール裏席に、バックスタンドに、メインスタンドに、ぶわあっと人影が広がっていくのが見えた。
さくさく芝を踏む音が後ろから近付いて来る。ドキッとして、振り返った。
――自分じゃなかった。
等身大の人の形の影だ。目も鼻もないけれど、なんとなく笑っているように見える。両手を軽く上げ、タッチを促すような動作をする。
「イチさん」
思わず言うと、影はポンとこちらの両頬を叩いてベンチの方へ走っていった。
イチさんはクラブの先輩だ。でも、昨年35歳で現役を引退して、今は幼年部のコーチをしている。
ベンチにも、ピッチにも、いつの間にか人影がいた。やはり影だが、所狭しと並んだ横断幕も、バックスタンドの中央に掲揚された旗もある。
照明は鮮やかに建物や芝の色彩を照らし出す。その光の中で、ディティールを持っているのは普段着姿の自分だけだ。
とてつもない違和感に襲われ、瞬間、逃げ出したくなった。
『選手の交代をお知らせします――』
スタジアムDJの朗々とした声が流れる。
ますますおかしい。だって、この人は一昨年、不慮の事故で亡くなってしまったんだ。
『背番号14、相原一央に代わりまして、ナンバー・サーティーセブン! MF! コウスケ・ヨシノ、ザ・モンスター・ルーキー!』
二度と聞けないはずの、テンションの高い巻き舌のアナウンス。それに引かれた歓声がまた歓声を呼び、スタンド一面が「コウスケ」コールで地鳴りのように揺れる。
そう、モンスター・ルーキーと言う煽り文句は恥ずかしいからどうか止めてくれと頼んだっけ。この時は単純に名前の連呼だったコールもすぐに、少し凝ったチャントを作ってくれた。それが嬉しくて寮の風呂場で口ずさんでいたら、チームメイトに笑われた――
イスキェルダ ゴレアドール コウスケ アレ!
イスキェルダ ゴレアドール コウスケ アレ!
「左利きの点取り屋っていう意味なんだよな。公式戦で一度も点取ってないけど」
いつの間にか目の前に自分がいた。無意識にチャントを呟いたのを聞いていたのか、そう言ってちらりと笑う。
今は血まみれじゃない。黒くて短い髪は、アップエリアでかいた汗でうっすら濡れている。4年前のユニフォームを着た体の線が細い。60キロぎりぎりしか体重がなかったからだ。照明が反射してきらきら光る目が、じっとこちらを見ている。
「これ、デビュー戦だよな」
尋ねてみると、こっくりと頷いた。
「そうだよ。後半30分、3点リードした所でイチさんと交代」
「終了までに額カチ割って病院送りだ」
「知ってるよ」
俺は、お前の中に生きている過去のお前だから。体いっぱいに希望を詰め込んでいた頃の。
「アプローチの仕方は、まあ、まずかったと思うけど。人の話を聞かないのは20歳過ぎても変わってないんだな」
がりがりと19歳の自分は頭を掻く。
「すっごい悲鳴あげちゃってさ。逃げるから追いかけたんだよ。最初から話を聞いてくれてりゃ簡単だったのに」
「血だらけの自分にいきなり人殺し呼ばわりされて、驚かないやつがいるか。話ってなんだよ」
「やめるなよ」
単刀直入に言い切った。
思わず言葉を失くして、じっと正面の顔を見詰めた。カッコイイつもりの無精ひげのないさっぱりした顔が生真面目に見返してくる。
「面倒臭くなって、もう何もかも投げちゃおうと思ってるだろ。だけどデビュー戦の記憶はお前の中に、22歳のお前の中に、今でもちゃんと残ってる。だから俺はまだここにいる」
初めてプロ公式戦のピッチに立った時の興奮と感動が具体化した形として。だから「本体」のお前がそれを投げ捨てたら自分は消えてしまうのだと、ぱきぱきと枝を折るような口調で説明する。
「しっかりした意志でさっぱり見切りをつけて現役引退するって言うんなら、俺は美しい思い出として大人しく消えるよ。それはそれで悪くない――うん、全然、悪くない。だけど、続けられるなら続けてもいいけど出来なくなっちゃったらそれでもしょうがないやって中途半端な態度じゃ、俺は死んでも死に切れない」
「なにそれ。お前が俺なら、別に死ぬ訳じゃないだろ。俺は結局、プロでやっていくだけの力がないってクラブから烙印押されたんだし」
「契約更新しないってそういう意味じゃないだろ。残念だけどうちでは使い所がないよ、ってだけの話じゃん。よそにはあるかも知れないじゃん? うちをクビになって移籍した先で頑張ってレギュラー獲ってるマリダとか戸羽さんとか、一浪して海外に行ったなっつんのことを、どうせプロ失格のくせに無理しちゃってーって全否定するわけ?」
「しない、しないけど、俺自身はトライアウトもセレクションも落ち続けだし」
「でも積極的に辞めようと思ってるわけでもないくせにさ。プロじゃなくたって、やろうとすればどこでもサッカーは出来るし、続けていればまた返り咲く機会だってある。投げやりになってんなよ。お前は俺なんだろ」
左腕の時計を見るような仕草をしつつ近付いてきた主審らしい影が、ピッチに入るよう促してくる。
もう時間がない。
ルーキーの自分にぐいと襟元を掴まれる。必死が過ぎて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「俺はお前の記憶の底で何回もこの試合をする。何回も頭をぶつけて何回も怪我をする。今までずっとそうしてきたし、これからもずっとそうしたい。だから、殺さないでくれ」
口早に言って突き放し、37番のユニフォームは大きな歓声に迎えられてピッチへ飛び込んだ。
躍動、という言葉がぴったりの後ろ姿が駆け出して行く。
それを見送り、呆然とピッチサイドに立ち尽くしながら、自分の足元をふと見下ろして愕然とした。
ワークブーツじゃボールを蹴れない!
目が覚めても、熱の余韻が残っていた。
人工の真昼を抱いた巨大なスタジアム。スタンドを埋め尽くす観客。肌がぴりぴりする、心地いい緊張と興奮。
かつて確かに、その中にいたことがあった。
まだ薄暗い部屋の中、ベッドに半身を起こして、毛布の下に組んだ胡坐の上で両手を握りしめた。
もう忘れかけたと思っていたその頃の記憶はしっかり自分の中に残っていた。この手の中くらいじゃ納まらずに持て余すほどだった気持ちは、完全に無くなった訳じゃなかったんだ。
「話し合えた?」
寝ぼけた声に床の方を見ると、そこに転がっていた杜崎が起き上がってこちらを見ていた。部屋中が荷物で散らかって収拾が付かなくなり、毛布と枕を抱えてこちらの部屋まで寝に来たのだ。
「若いねえ、って感じの熱い説教をされた」
答えると、杜崎はスンと鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。
「分かったことはあった?」
「俺は昔から言葉選びが下手だった」
人殺しだの死ぬだの、そんな物騒な言い方をしなくたっていいじゃないか。思い出せとか忘れるなとか、初心に帰れって言えばいいのに。
ただ――物騒なだけにインパクトの強い言葉は、ずん、と胸にこたえた。
血気盛んで貪欲な自分がまだ心の中で駆け回っているなら、もう少し、挑戦を続けられるだろうか。
朝になったら強化部長に電話しよう。どこか左利きのMFを欲しがっている所はないか、テストをしてくれそうなところはないか聞いてみよう。セレクションをまだやっているチームがないか調べよう。他のチームの戦力外選手にも連絡をとってみよう。それから――と考えていると、また杜崎の声がした。
「じゃあ、もう安眠できるね」
そう言って毛布の中にうずくまり直したらしい。もそもそした声が床から聞こえる。
「寝ないとまた二重だよ。アルパカ顔になるよ」
「うるさい、お雛さま顔」
「ひど」
抗議を無視してばさっと毛布に潜り込んだ。
眠ろう。眠れば、その分朝は早く来る。
俺はまだ頑張れる。
夜明けまでの時間は長くない。それでも、出来る事ならさっきの試合の続きを夢で見たいと、目をつぶりながら願った。
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