「片し貝は泡を吹く」
懐古趣味者が好んで住み着きそうなファサードの内側に使い勝手の悪い間取りを抱えた、内廊下式の二階建てアパートを、久々に訪れた。
たちの悪い恋に囚われて自家中毒を起こしていると、人伝てに聞いていた。
その様子が何か創作の発想の足しになるかもしれないとの考えで、特に親切心からではないが、ドアを開けて出迎えた顔に話を聞こうと言うと、「物書きとは因業な商売ですね」と悪態をつきながら血色の悪い頬にそれでもいくらか赤みが差した。
寝起きに使う六畳間に気の利いた暖房器具などなく、ささくれが目立つ畳に加えて、この前の地震でひびが入ったきりの漆喰の壁が酷く寒々しい。この前のと言ったって既にそう最近のことではない。それなのに修繕もしなければ絵なり布なり掛けて取り繕いもせず、だんだん広がるひびを横目に暮らしているらしい。
「あの人は私が好きだと言います。私はあの人が好きです。自分はこれくらい好かれているのだろうとあの人が想像しているより、きっと、もっと、好きです」
訪ねた相手は冷たく平たい座布団の上に膝を抱えて小さくまとまり、ぼそぼそと切り出した。
差し出された座布団はまだしも厚みが残り、洒落た覆いも付けてある。来客には良いほうを献じようという気遣いはまだ出来るらしい。
「なら好き合っているんじゃないか。何を悩むことがある」
「相手のことを好きな者同士がひとりづつ居る、というだけのことです」
打ち返すように素早く反論して、その自分の言葉に傷ついた顔をする。窓の外は風が吹き始めて、雨戸のない窓ガラスにしゃくしゃくと霙の粒が当たる音がする。更ければ更けるほどに今夜は冷えるだろう。いずれ雪になるかもしれない。金属のシェードに覆われた電球ひとつの灯りの下、部屋の中で声と一緒に吐き出す息は白い。
「相手の恋心に応えて、自分の気持ちを返していないのか」
「返したつもりでおりました。言葉で、態度で、行動で。受け取ってくれたのか、投げ捨てられたのか、見なかったことにしたのか、皆目見当がつきません。それを問い質す権利が私にあるとも思えません」
「権利とは大仰な」
「あの人は私が好きだと言いました。好きな相手に100日顔も見せず声も聞かせず、言葉ひとつも遣らずにいて、平気なものでしょうか。ええ、多忙な人ですから、私のために時間を使って欲しいなどとはおこがましいと承知しております。押して会いたいなどと申せません。たまの余暇は観劇、読書、自分の楽しみに使って欲しいと願っております」
「君と過ごすことも楽しみのひとつではないのか」
「ええ、はい、そうではあるのでしょう。そういう場合は夜この部屋へ来てひと晩過ごし、朝食を共にしてからお帰りになります。ほんの短いその時間は実に濃くしっとりと深く甘いのです。しかしそんなお声掛かりがあるのはふた月、み月に一度あるかどうか」
第三者の目に、これは交際している見えましょうか。そも、あの人がくれた好きだという言葉は、恋心の吐露であったのでしょうか。ちょうど目の前に転がってきた便利に使えそうなものを繋ぎ止めておく、ただの道具では無かったでしょうか。
会いたい。声を聞きたい。だらだらと他愛のないやり取りをしたい。交際相手などとは思ってもいない、便利に使っているものにそんな要求を投げられるなど、不愉快でしか無いでしょう。だから私の気持ちは放ったきりの宙ぶらりんなのです。
にわかに立ち上がり、背伸びの体操のように両手を上に上げて伸び上がる。運動で温まるつもりなのか単なる鬱屈の発散なのか、畳から見上げる体は薄いシャツの下に肋と鎖骨が浮き上がり、貧相に細長い。
「私を恋人とするつもりはなく、便利なものと遇したくあり、それでは寝覚めが悪いから愛情があるらしく振る舞ったのなら、それはそれでいいのです。もとより成就する恋とは思っていません。させていいとも思いません。たといあの人が真実、私を好いてくれていたとして、それではあの人が幸せになりません」
「好きな人に好かれぬことこそ単純にして最大の不幸とも言うぜ。その点、君の相手はお墨付きだろうに、何故そう思うんだい」
「どうあれ私はあの人が好きだから、幸せになって欲しい」
「それは質問の答えではないな」
地震で入ったひびは壁の奥でじわじわと縦深しているのだろう。いつか針のひと突きで崩れ落ちるのかもしれない。そのひびに目を据えて、伸ばした体を左右に倒す運動をぎこちなく続けながら、口ばかりはなめらかに動く。
「釣り合わぬからです。家柄、容姿、年齢、学歴、職業の格、社会的立場。私はあの人の横に立つには相応しからぬ人間です。必ず世間は笑います。私が笑われるのはいい。あなたもご存知でしょう、私はその程度の人間です。しかし、私が横にいるためにあの人が笑われるのは、それだけは絶対にあってはならないのです」
「ふうむ」
屈折しているが、これは分かりやすい形の愛ではある。
世間の反応など気にする必要はないと慰めるのは容易い。そんな言葉をかけた人間は後ろ指を指される当事者ではないからだ。自分は笑われていいと言い切るくらいに自尊心の低い目の前のこの人間は、愛しい相手が自分と同じ立場へ引きずり落とされる様に、決して我慢できない。だから恋い慕い、思い悩み、離れねばならぬと自覚しながらずるずると離れがたく、100日に一度囁き交わす束の間の睦言に蕩け、その直後にはどん底まで落ち込み、相手の愛情を疑い、疑いの真偽を確かめること無く、絶対唯一の真実として帰納する。
自分はこんなに取るに足らない存在なのだから、何もかも自分より優れているあの人が、人がましい愛情を向けてくれるはずがない。心と体を自由に使える便利なものとして、いつか飽きるその日まで保持されているに過ぎないのだ、と。
「私を愛してくれていますかと尋ねて疎んじられぬと思うほど、私は自惚れられません。能動的に嫌われて、もう付き合いを持つのは面倒だと、切り捨てられるのは嫌なのです。出来得れば一緒になりたいなどと大それた望みを抱かず、どうするつもりがあるのかあの人に確かめずにいれば、このままあの人を好きでいることを自分に許せるのです」
壁にひびを入れたあの地震があった頃は、生活に追われるばかりで、夢や希望を持つ余裕はなかった。しかし先の見えない将来があった。見えない以上は希望を抱いてもいいはずだとうそぶく顔には、まだ張りがあった。
あれから短くない歳月を経て今ここにいるのは、薄く埃がかかったシェードに残る誰かの指の跡を後生大事にとっておく惨めな人間だ。
屋根板が軋んでいる。風はますます強い。がたがた鳴る窓枠が壁のひびを押し広げ、突き壊し、この古いアパートを惨めたらしい痩せ顔もろとも押し圧してしまえばいい。きっとそれが誰にとっても一番良い。
今夜はきっと雪嵐になる。
茶のひとつも出ないこの訪問の引き上げ時を、私は早くも思案しつつある。
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