三、


 踝まで浸る生温い水の中に、ぼんやりと立っている。

 透明な壁に四方と天井を囲まれた狭い部屋の中にいるようでもあり、果てしなく開けた広野の只中に佇んでいるようでもある、奇妙な空間だった。
 濃淡のないのっぺりとした闇に覆われて、周囲の様子は何ひとつ窺えない。見渡す限り黒、黒、黒だ。光源がどこにあるのか見当もつかないが、自分の身体や手足を目視するのに問題はなく、それで白い寝間着を着ているのが知れる。
 足元で微かな水音が鳴る以外、聞こえる音はない。
 人の姿はおろか虫一匹、草一本さえ見当たらない。
 それでいて、生の気配は濃密に漂っている。

「三郎」

 こちらの望むと望まざるに関わらずいつも隣を占める友人の名前を、声を出して呼んでみた。
 耳を澄ませる。どこからも応(いら)えはない。

「八左ヱ門」
「兵助」
「勘右衛門」
「誰か」
「誰かいないのか」

 両手を口の横に添えて、ただ無闇に声を張り上げて続けざまに呼びかける。何にもぶつからず反射しない声は放たれるそばからまっすぐ暗がりに呑みこまれ、少しの余韻も残さずに消える。
 そして、静寂。
 少しでも何か見えはしないかと目を細めてじいっと彼方を睨み、考える。
 着ているものの他は何も持っていないようだ。寝間着なのだから当然だが、懐や袖を探ってみても小刀ひとつ入っていない。この場に何があれば何の助けになるのか、さっぱり分からないが。

 どうしよう。
 時間が経つか何かしら行動をしたら、この事態は動くだろうか。それとも、いつまで経っても何をしても現状のままだろうか。
 ここに暫く留まって様子を見るのと、その辺をひと回り歩いてみるのと、どちらがいいんだろう。
 ――怖いな。

 思考の中にふっと浮かんできた感情に驚き、面食らった。
 おかしな状況に放り込まれて戸惑ってはいるが、差し迫った危険は感じない。誰かを頼りたいほど気が参ってもいないし、半人前とは言え"忍者"と称される身なれば、甘えの強い性格でも臆病でもないつもりだ。
 なのに、まるで掬い上げた掌から零れる乾いた砂粒のように、微かな怯えを含んだ不安が積もっては崩れながら心の裡にさらさらと溜まっていく。

「あ……」

 不意に何かが裸足の爪先に触れ、息を呑んだ。
 それは水の中にある左足の甲を通り、足首から脹脛へ、更にその上へ、締め上げるようにじわじわと巻き付いてくる。
 慌てて足元を見下ろす。同時に、感情の見えない丸い瞳と視線がぶつかる。
 蛇だ。
 胴の太さ二寸ほどの斑模様の蛇が、寝間着の裾を割って鎌首をもたげている。声を失って見詰め合ううち、しゅうと音を立てて伸びた赤い舌に膝を舐められて、喉の奥で短い悲鳴が漏れた。
 どくん、と強く鼓動が打った。
 蛇が怖かったことなど無いはずなのに、見えない糸で雁字搦めにされたかのように、手も足も動かない。
 振り払うことができず立ち竦む間に、蛇は緩慢な動作で寝間着の下へ再び頭を差し入れる。滑(ぬめ)る胴を冷汗の浮く肌にじっとりと纏わせ、鍛えられて筋張った腿へ、徐々に絡みついていく。
 左右の脚の間を滑り、うすい皮膚の上を横切る濡れた感触に、ぞくりとした。
 冷たく尖った鱗は焦れったいほどゆっくりと脚を上りつめていく。

「ひっ」

 出し抜けに、腰の後ろに鈍い痛みが走った。
 脚の付け根から腰の線に沿って背中へ這い上った蛇が腰椎を噛み割り、身をくねらせて、身体の内側へ乱暴に潜り込んで来る。
 腹腔を掻き回して異物が蠢く。そこを埋める臓腑に歯を立て、噛み付いて千切り、流れ出たものを細い舌がちろちろと舐め取るのが分かる。生々しい質量が肋(あばら)や背骨を圧迫する。我が物顔にのたうつ蛇が蹂躙した地点から、痺れるような疼痛があちらこちらへ伝播する。
 身体の芯が戦慄(わなな)いた。
 灼けるような熱い痛みを堪え切れず、前のめりに深く上体を折る。
 とくとくと首筋で鳴る脈が早さを増す。呻く声が声にならない。抑え付けるように両腕を回して腹を抱き、抱き潰すほどに力を込める。突き刺さる爪の痛みで辛うじて意識を引き留めながら、空気を求め肩を震わせて喘ぐ。
 俯く目に映る水面に幾つも広がった波紋の中に、ふっと人影が差した。

「……三郎、か?」

 乱れる呼吸に紛れた問いに返事はない。手を伸ばせば届くほどの距離で、しかし手を差し伸べようとはせず、誰かが無言で突っ立っている。
 必死に顔を上げる。
 自分と寸分違わぬ姿が確かにそこにいる。
 ああ、三郎が来たと可笑しいくらいに安堵して、泣きたくなるほど切なくなった。
 大きく口を開く。

 助けてくれ、と叫んだつもりだった。

「見ないでくれ」

 嗚咽に似た掠れ声が自分のものだと気付いた瞬間、頭の中が白く眩むほどの激しい羞恥に襲われた。
 目の前に立つ自分は蔑みの色を浮かべてこちらを見詰めている。
 それを見たくなくて目を逸らす。意味を成さない言葉が切れ切れに口から零れ、がくがくと膝が震え出す。
 耳が熱い。涙が滲む。
 動揺を嘲笑うようにぞろりと蛇が動く。腹を食い破られる予感で息が詰まる。
 嫌だ。
 ひゅうひゅうと喉が鳴る。蛇がばら撒いたぞくぞくする疼きが次々と連鎖して、止め処もなく膨れ上がる。
 ぎり、と奥歯を噛んだ。
 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやだ!
 足を踏み締め、肌を掻き毟り、身体を捩じり、首を振り立て、力の限りに身もがいても、蛇に曳かれ一点へ向かって急激に収斂していく熱の奔流は、自分の意志では抑えられない。
 大身の槍へと変じた蛇に為す術もなく貫かれた瞬間、五体のみか意識さえも融かすような痺れが総身に弾け、水飛沫を撥ね上げて膝から崩れ落ちた。


 寝間着をびっしょりと濡らし、激しく肩を上下させながら、生温い水の中に呆然とうずくまっている。
 乱れた髪の間に覗く耳の縁は紅をさしたように赤い。

 自分に生き写しのその姿を、苦々しい思いで見下ろす。
 ふいと現れたのは変装した同級生ではなく、表裏一体の表と裏にいつの間にか分かたれていた自分自身だったと、今では理解している。
 傍若無人に荒れ狂った熱が身体の外へ飛び散ったその時、意識の主体が一瞬のうちに入れ替わったのだ。
 その証拠に、行き場を見失って混乱していた思考は意識の中に欠片すらも無く、粛と静まった心は醒めてさえいる。
 
 ――なんて様(ざま)だ。

 その呟きが聞こえたのか、力なく垂れていた頭がのろのろと仰向く。
 魂が抜けたようにこちらを見上げる蕩けた目がひどく厭わしくて、横を向いた。






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