十、


 満月が冴え冴えと輝く夜空の下、深い森の底を翔ぶが如く駆けている。
 まるで翼が生えたかのように身体が軽い。
 腰に括りつけた荷はずっしりと重い。それが少しも苦にならない。
 長期の潜入任務を果たしての凱旋だ。あの組頭にもきっと褒めて貰えると思うと、止めようもなく胸が弾み、足はますますその速さを増す。
 課せられた役目を成し遂げたならばその足で何をおいてもここへ駆けつけるようにと、繰り返し繰り返し言い聞かされてきた。お陰で、かつて踏み入ったことのない森の景色も、瞼の裏にすっかり思い描ける。複雑に入り組んだ木々の間を迷いなく飛び抜けて、逸る心に任せてひた走る。
 ――と、
「誰か」
 樹上から鋭い声が掛かった。
 不意に放たれた一矢に射止められ、地面に落ちる己の影を踏んで立ち止まる。
 ぐるりを囲むどの木に声の主がいるものか見当もつかない。だからと言って臆する気持ちは湧かない。頭上の梢をまっすぐ仰ぎ、凛然と答える。
「似我蜂」
「合言葉を」
 すかさず同じ声が言う、その無感情な声音すら嬉しい。
 すう、と冷たい夜気を胸一杯に吸い込む。
 震えたり裏返ったりしませんように。ゆるく拳を握り、息が通りやすいように真っ直ぐ立つ。何度も何度も復唱したことばを初めて大きく声に出す、今がその時だ。

「帰りなんいざ 田園将に蕪(あ)れなんとす なんぞ帰らざる」

 我ながら晴れ晴れしい声が夜の静寂(しじま)を渡った。
 そうだ、俺は帰って来た!
 思い切り吐き出した空気と入れ違いに郷愁がひたひたと身の内に満ちて来る。やわらかく興奮を宥めるその温かさと、上気した頬を撫でて吹き過ぎる風の冷たさが心地良く、続く文句をうっとりと詠い上げる。

「既に自ら心を以て形の役と為す なんぞ惆悵(ちょうちょう)として独り悲しむ」

 本当ならこんなに音吐朗々と詠じるような歌意ではないのにと思うと、心の底がぷくぷくと沸き立つ。
 その通り、今までは任務の為に心に蓋をして来た。すっかり身に馴染んだお仕着せの忍び装束も今夜限りだ。さっぱりと脱ぎ捨てて明日には焚き上げてしまおうか。

「已往の諌むまじきを悟り 来る者の追うべきを知る 実(まこと)に途に迷うこと其れ未だ遠からず」

 樹上の声が詠う。今までの偽られた暮らしから抜け出し真実へ立ち帰るにはまだ遅くないと、淡々とした響きが示してくれたその導きに、力を込めて応える。

「今の是にして昨の非なるを覚りぬ」

 腹の底から咆えるようにして言い切った。
 それきり、しん――と静まり返る。
 元の詩はまだ続きがある。が、合言葉として教えられたのはここまでだ。どこも間違えてはいないはずだと、耳を澄ませて次の言葉を待つ。
 遥か高い所で微かな風鳴りがした。
「進め」
 その唸りに紛れるほどの誘(いざな)いに背中を弾かれて、再び走りだす。
 胸が踊る。心が騒ぐ。一刻も早く、少しでも早く、組頭の御下(おんもと)へ!


 折り重なる枝葉の隙間に大きな篝火が見えた。
 白壁の苫屋を背景に、赤々とした火に照らされて浮かび上がる人影が、その次に見えた。
 右に一人、左に一人従え、その間で悠然と床几に掛けている影の前へ木立を抜けて転がり出ると、乾いた土を蹴立てて片膝を突き、勝ち鬨(どき)を叫ぶかのように名乗りを上げた。
「暗号名"似我蜂"、長きに渡る紛れ忍の役目を果たし、只今帰陣仕りました!」
「うん、声がでかい。元気がいい」
 そのまま頭から滑り込んで来そうな勢いをいなすように軽く言い、床几に座った組頭はちょっと上体を反らした。
 右の若い側近が溜め息混じりに言う。
「諸泉です。特命班の」
 組頭はぽんと手を叩き、「ああ、はいはい。覚えてる覚えてる諸泉ねそうそう」とやや早口になりながら、今度はぐっと身を乗り出した。
「しばらく見ない間に大きくなったかな」
「成長しました! 十九ですから!」
「ははは、伸び盛りだ。声がでかい」
 からかっているのかふざけているのか掴み所のない組頭の物言いがひどく懐かしく、そう感じる自分が可笑しい。対照的に冷静な左右の側近の雰囲気も昨日までの情景そのままで、それがまた無性に面白くて、せいぜい凛々しい顔をしたいのにどうしようもなく口元は緩もうとする。箸が転んでも可笑しい年頃は通り過ぎたけれど、今は何もかもが昂揚した神経を刺激して仕方ない。忍者隊の首領とその右腕左腕というのは何処もこんなふうなのか。あはは、みんな苦労してるんだ。
「――今日今夜ここへ現れたということは、成し遂げたのだな。その"証"を組頭へお目に掛けろ」
 頭を揺らして笑う組頭の左で静かに控えていた年嵩の側近が、低く落ち着いた口調で促した。
 そのひと声を待っていた。
「はい、ここに!」
 誇らしさと晴れがましさで今にも震えだしそうな指先で、急いで腰に提げた包みを外す。固く縛っていた結び目を慎重に解くと、両膝を突いた姿勢に改めて背中を伸ばし、胸の前に捧げ持った。
 ほう……と、嘆声が起きた。
「これはまさしく……」
「なるほど、噂に聞いた通りだ」
「少々検めさせて貰う。そのまま待て」
「はっ!」
 年嵩の側近がそれを取り上げ、組頭のもとへ戻る間、地面に両手をついて低く平伏した。
 堪えても堪えても込み上げてくるにやにや笑いを組頭や側近の目に晒すのは、功遂げて生還したばかりの諜者としてさすがに格好がつかない。殊勝な態度に見えていることを願いつつ、今日までの道程をしみじみと振り返る。
 敵城の忍者隊への潜入。内情を探り、調べ得た情報を流し、連絡員同士の仲介、諜報員の補佐、時に軽い騒ぎを起こして撹乱、その対応の観察、そして総仕上げに――

 長かった。実に長かった。

 百名の「同僚」の中に混じって頭角を現し、かつ適度に"抜けた"ところも見せて反感を買うのを避けつつ、じっくりと時間を掛けて周囲の信用を築き上げた。最大の好機は九年前に遭った火難だ。精一杯お世話をして少しでも恩を返すのだと身を揉んで泣いた自分は、間諜としての自我が消えてしまったかと錯覚したくらい、どこから見ても一心に恩人を慕う健気な幼子だった。それが奏功して、常に身辺にまとわりついていても誰も気に留めなくなり、それどころか面倒事が起きると「諸泉を呼んで来い」「尊奈門はどこだ」と頼られる――ちょっと違う気もする――までになった。人間万事塞翁が馬と、その一件で己も身を危うくした老父が呟いていたものだ。

ぎしっと床几を軋ませて、組頭が座り直す気配がした。
「えーと、ジガバチ――じゃなくて諸泉か。あれ? こんなに若いんだっけ?」
「これは子のほうです。組頭、惚けられましたか」
「容赦ないなお前。仕方ないだろ、歳なんだから。じが――じゃなくて諸泉、面を上げよ。二代に渡る務め、ご苦労だった」
「はっ。勿体ないお言葉にございます」
 感激を噛み締めつつ、垂れていた頭をそろそろと起こす。
 同時に風向きが変わった。
 ばちばちと火の粉を撒き散らして、大篝火が勢いを増す。
 音を立てて燃え上がる紅蓮の炎を浴びて、幽鬼のように痩せた若い女の側近と桁外れな長身を持て余す年嵩の側近、地に届くほどの白髯をたくわえた好々爺然とした組頭の姿の上に、黒と橙の影が目まぐるしく踊る。
 どれも初めて見る顔だ。名前も素性も知らない。しかし誰もが慕わしく、切ないほどに懐かしい。
 今の是にして昨の非なるを覚りぬ。昨日までは間違い。今日からが正解。ここが俺の本当の居場所だから。
 年嵩の側近の手の中で、後生大事に運んできた首の、そこだけ包帯に隠れていない右目が火を映して光る。

 「組頭」。裏切ったのかと最期にあなたは言ったけれど、それは違う。

 十九年このかた見慣れた、今は虚ろに空を睨んでいる焦点のない目に向かって、心の中で話しかける。

 俺は最初から仲間なんかじゃなかったよ。





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