六、


 海辺の風穴(ふうけつ)に決して近寄ってはいけないと、この辺りの子供はみんな物心付く前から言い聞かされて育つ。
 が、そこはそれ、「してはいけない」と言われるほど「それならやってやろう」と反骨心を抱くのが子供というものだから、実は誰もが一度は風穴を覗いたことがある。
 だから、入り口をくぐってすぐに低く落ち込んだあとは緩やかな上り坂になっていること、その更に奥には狭くて平らな空間があること、いつもじめじめして生臭いようなにおいがすることは知っていた。
 外の光が届かないから何となく陰気で、変な虫はいるし、湿っぽくて居心地も良くない。ひと通り探検したらそれっきり興味も無くなるような、どこにでもあるただのほら穴だ。
 それでも、大人たちが怖い顔をして遠ざけようとするくらいなんだから何かがあるんだろうと、代々の子供たちがこしらえてきた「それらしい話」があるにはある。

 一番奥の壁のそのまた向こうに、相模の海を守護してくださる龍神さまが眠っているんだ。
 昔々に都から流されて来た偉い人の怨霊が鎮めてあるんだ。
 九州から逐われた海賊が蝦夷を目指して逃げる途中、ここへ宝を隠していったんだ。

 ぽっかり空いた暗い穴を遠目に眺め、時にそんなことを取りとめもなく喋り合いながら、しかし自分は真実を知っていると思っていた。
 新月の日の日暮れごろ、最も高い所まで潮が満ちた時、風穴が完全に水没したのをたまたま見かけた。
 そして理解したのだ。子供が中に入り込んで遊んでいるうち、つい夢中になって時を忘れてしまったら危ないから、大人たちは厳しく言い含めるのだ、と。
 でもそんなのは「本当」過ぎて面白くない。得意顔で口にしたが最後、遊び仲間や学校の友達がしらけるのは分かりきっているから、だから誰にも言わなかった。
 本当の理由を知っている自分はみんなより大人だと、内心、ちょっぴり得意だったのは否めない。

 言わなくて正解だった。
 十五になって初めて知った「本当に」本当の理由は、より現実的で興醒めだった。
 その風穴は重罪人を閉じ込める為の天然の水牢であり、今そこには、風魔忍者の仇敵たる暗殺者が囚われていた。


「お前、見覚えがあるな。風魔忍者の学校の小僧だ」
 入り口の外に立って風穴の中を覗いた途端、奥から声が聞こえて足が止まった。
 中天をやや過ぎた太陽は目映いばかりに明るい日差しを辺りに投げかけている。その旭光の届かない風穴の奥は淀んだ闇がわだかまり、人の姿は陰に紛れおぼろに霞んで見えない。
 逃げられぬよう咎人の手足をいましめる鎖が、がちゃがちゃと耳障りな音を立てて鳴る。
「はーあ、こんなガキまで嘲笑いに来るのか? 俺らってよっぽど風魔忍者に嫌われてんだな。無理もないけどよ」
 月のない夜だと言うのにへまをするとはまさにツキがない、とうとう焼きが回ったかなと、ぼやくような声が問わず語りに喋る。
「ところで昨夜から離れ離れにされてるんだが、土寿烏がどこにいるか知らないか。どこか別の場所に繋がれてるんだろう。それとも、もう首を刎ねたのか」
 弟分の安否を尋ねる万寿烏の口調はあっさりして、いっそ軽薄でさえある。
 そこに虜囚の虚勢は無い。生きていても死んでいてもそれほど違いはないのだ、とでも言いたげに聞こえる。
 立ち竦んでいた足にぶるっと震えが走り、我に返った。
 瞬きも忘れて闇を凝視していた目が乾いている。ぐっと奥歯を噛み、両足を踏み締めた。

「お前らの命が軽いからと言って、」

 我知らずひび割れた声が口をついて、はっとして唇を噛んだ。
 目に映すのさえ厭わしい相手と会話をする気は毛頭ない。ただ囚人(めしうど)のいる風穴を睨み、呪詛のひとつも吐きつけて、それで踵を返すつもりだった。

「他人のそれも軽いと思うのか」

 口をききたくなどないのに、言葉が勝手に溢れ出す。
 ふざけた名を持つ二人組の暗殺者に屠られた風魔忍者は十指に余る。その中には、先々代の頃から第一線で活躍してきた古強者も、下級生たちの憧憬と尊敬を集めていた忍術学校の若き卒業生もいる。
 幼い頃から目の当たりにしてきた、卑怯な手に掛かって志半ばに斃れた者の無念や憤り、あとに残されるひとの悲嘆と怒り。――こいつらにとっては、それすらも鴻毛ほどに軽いのか。

「だから何の痛痒もなく刈り取れるのか。お前らは何故、風魔忍者を狙う」

 きつく問い詰める口調に気圧された様子でもないが、闇の向こうが一瞬、沈黙した。
 次に聞こえてきたのは低い忍び笑いだった。
 手のひらに爪を立てて拳を握る。強く顎を引き、額に滲んだ汗が頬を滑るのを感じつつ耳を澄ませると、やがて笑いやんだ声は、朗々と喋り出した。
「面白い話をしてやろう。南蛮坊主の説法を聞いたことがあるか?」

 俺もどこかで斜めに聞いただけだから、詳しいことは覚えていない。
 坊さんの言うことには、人間は「あいする」のが肝要なんだそうだぜ。愛宕権現の「愛」の字、それをする、だと。意味が分からん。
 しかしどうやら、自分以外の人間に恋慕のような感情を持って、いつも思い遣ってこまこまと慈しめってことらしい。それも恐ろしく範囲の広い、見たことも会ったこともない赤の他人ぜんぶにまで、平等にだ。
 恋とは違うんだとさ。もっと俗っ気がなくて、清潔なものなんだと。
 だがなあ。
 俺に言わせりゃ、それは執着だ。
 思う相手のことを片時も頭から離さず、べたべたとまとわりついて頼んでもない世話を焼いて、文句を言うのも許さずに、あれも愛これも愛ってさ。相手が何をどう感じていようとお構いなしに、さもさもそれが相手の為だとばかりに。
 なんで風魔忍者を狙うのか、って言ったな。
 別にお前らが憎くはない。お前らが俺達に向ける敵意の、そうだな、万分の一もないだろうな。
 ただ、俺達に風魔の暗殺を頼んでくる人間がいる。そいつらはきっとお前らが大嫌いなんだろうが、仕事だから、俺達は風魔をつけ狙う。そういう依頼を受けて成功を重ねていくうちに、いつの間にか風魔キラーなんて呼ばれるようになって、その評判を聞きつけた風魔のことが憎い奴らが、今では引きも切らず俺達の所へ依頼を持ってくる。
 仕事はきっちりやらなきゃいけないからな。よおく観察して、分析して、考える。
 今何をしているのか。何を考えているのか。今日の機嫌はどう? 体の調子はいい? 何の用事で出掛けるの? どんな飯を食って、どこで風呂に入って、誰と眠る? いつも思っている。いつも気にかけている。いつでも。今でも。

 俺達は風魔忍者に執着している。それを愛、と言い換えるならば。
 勿論お前のことも、とてもとても愛しているよ。

「――黙れ、悪鬼がっ!」
 堪え切れずに叫んだ声が、背後から崩れかかってきた波に叩き落とされて、白い泡の間に間に砕ける。
 いつの間にか日は傾き始め、腿を叩くほどの高さに海面が上がっている。
 昨晩捕らえられた万寿烏はそれからずっとこの中に繋がれていた。
 新月の夜の翌日早朝、満潮のときを迎えた海は風穴を飲み込み、その洞の奥の奥まで海水でいっぱいに満たしたはずだった。
 それなのに、浮かれ調子に喋る声がいる。
 その声は、今なお己を愛していると嗤う。


「与四郎」
 名前を呼ばれてはっと見上げると、風穴を見下ろす高台に仁之進が立っていた。
 老けた顔にしょぼしょぼとした笑みを浮かべ、首を下げて、風穴へ目を向ける。
「だからよ、俺は、こんなん子供の見るもんじゃねえって言ったべ?」
 おっさんの話は聞いとくもんだと冗談めかして言った年長の後輩の顔が、今度は今にも泣き出しそうに歪んだ。





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