七、
磯に女の死体が上がった、と若い衆が水軍館へ駆け込んで来た時、真先に腰を浮かせたのは疾風だった。
「ウミアマか? ウミニョウボウか!? 濡れ女か、それとも人魚か!?」
「……いやっ、普通の女です、見た目は」
目にも留まらぬ速さで滑り込んだ由良四郎の背後から畳み掛ける疾風に、若い衆が面食らって答える。
それを聞いた途端に疾風は「なんだ、それなら様子を見に行かねえと」と平然と立ち上がり、会議の最中だった船中の四功の面々は、それぞれに顔を見合わせて苦笑した。
「お頭。どうします」
上座へ目を向ける鬼蜘蛛丸の顔色は少し青い。もっともこれは凶報のせいではなく、じわじわと喉元へせり上がって来つつあった陸酔いのせいだ。
「まあ、放っとけないやな。皆で行こう」
そう言って円座から腰を上げると、同じように青褪め始めていた蜉蝣も早々と席を立ち、それを見た由良四郎が呆れたように肩をすくめた。
死体が流れ着くなど珍しいことでもないのに、浜は妙にざわざわとして騒がしい。一隅に集まった人の輪に近付いて行くうち、その外れの辺りで、殊更な仏頂面をして突っ立っている間切が目に入った。
どういうわけか上衣を着ていない。
その両隣では、網問と航が代わる代わる腕をつついたりしたり顔で話し掛けたりしては、うるさそう追っ払われている。
「何やってんだ、あいつら」
「あ、お頭。こちらです」
部下のひとりが幹部の一団を見とめて声を上げる。それを聞いて左右へ割れた人垣の間へ踏み入ると、さり気なく前へ出た舳丸がすっと側へ寄り、小声で耳打ちした。
「若い女です。どうしてだか、素っ裸で」
目で指した囲みの真ん中に色のあせた小袖が広げられている。それを見て、間切の格好に合点が行った。
「磯にいたんだってな?」
「はい。岩の間に浮いていたのを見つけて、重と俺で引き上げました。膨れもなくてきれいなもんです。そうだったな、重」
舳丸が相槌を促すと、小袖で覆われた亡骸から目を逸らしがちに佇んでいた重はこちらを見て、首を縮めるようにして頷いた。体の前で軽く組んだ両手をしきりに揉み合せ、そわそわと視線を泳がせて、ひどく落ち着かない様子だ。
「ご苦労だったな。舳丸に重、お前らは館へ戻って清めをしておけ」
水練の二人が口々にはいと答え、重は舳丸に背中を掴まれて、連れ立って人垣から抜けて行く。
それを横目に見ながら亡骸の傍らへ屈み、軽く拝んでから小袖をめくった。
しっとりと濡れた長い黒髪が、まず見えた。
その次に目を閉じた青白い顔が覗き、片手で掴めてしまいそうな細い首と、華奢な肩が続く。
「女……と言うか、女の子だな、こりゃ」
思わず眉根が寄った。
ふっくらした口許や塩梅良く整った目鼻の辺りにちょっとした色香がないでもないが、全体を見れば、まだ子供こどもしたあどけなさの印象が強い。目をぱっちり開け、喋り、笑っていた頃は、きっと小鳥のように可愛らしく見えたことだろう。事切れてなお唇に残っている微かな笑みが哀れを誘う。
由良四郎に声を掛けて場所を譲り、小袖で隠れていない足元の方へ回る。
日に焼けたあとのない白い足だ。そっと触れてみた足の裏は柔らかく、丸い踵は滑らかで、小さな指の先にはきれいに整えられた桜貝のような爪が並んでいる。
ふむ、と唸った。
自分の足で歩き回ったり力のいる労働をした痕跡がない。と言うことは、おそらく「姫」とか「お嬢様」と呼ばれるような身分の娘か。
「この娘さんを知っている奴はいないか」
興味津々に小袖の下を覗き込もうとする面々をぐるりと見回すが、誰も彼もが首を横に振る。まあそうだろうなと思いながら、膝の砂を払って立ち上がった。
「ここへ流れ着いたのも何かの縁だ。俺達に何の悪因があるわけじゃなし、見晴らしのいい場所にでも葬ってやろう。そうだな、花の咲く木の下がいいか――お前ら、助平心でじろじろ見るんじゃねえぞ」
釘を刺すと、一拍遅れて「はい」「へい」とばらばらに返事が返って来た。それでもじいっと睨んでいるお頭に恐れをなしたように、俺は筵を探して来る、じゃあ俺は小屋から鋤を取って来ると言って、三々五々にそそくさと動き出す。
「……男って馬鹿だよなあ」
「性(さが)は仕方ありませんや。――おや」
丁寧に小袖を掛け直していた由良四郎が手を止める。
「どうした。知った顔だったか?」
「いえ全く。まだふた月かそこらでしょうが、この御嬢、身ごもってますね」
「ありゃあ」
机上にひとつ火を灯した部屋でひとり黙々と筆を動かしていたが、飽きた。
埋葬の仕切りを義丸に任せ、水軍館へ戻って続きを始めた会議がようやく終わった時には、すっかり日が沈んでいた。ここ最近の忙しさにかこつけて諸々の議題が後回しになっていたせいで、新たに取り決めた掟やら船戦の演習計画やら商船に頼まれた警護の日程表やらなにやら、積み上げた議事録はずっしりと重い。
それらを叩き台に、兵庫水軍総大将の署名入りで早急に作らなければならない書類は山ほどある。
しかし飽きた。
筆を置き、座ったまま伸びをしたついでに、そのままごろんと後ろへ倒れる。
それだけで既に半分がた靄でかすんだ頭を拳でごつごつ小突き、寝るなよ寝るなよと自分に言い聞かせつつ、昼の騒ぎをぼんやりと思い返す。
間切の小袖はそのまま娘に着せて埋めてしまった。死体に掛けたものをまた身に付けるのは気味が悪いとぶっきらぼうに言い捨てた意を汲んでのことで、それをまた散々にからかった網問と航は、今度こそぶん殴られていたが。
忍びねえと素直に言えばいいものを、性根は良くても不器用で損をするクチだな、あれは。
それにしてもあの娘さん、一体どうして裸だったんだ?
首を絞められた痣や刀傷などの目につく外傷はなかったし、舳丸が言った通り、顔も体も膨れてはいなかった。皮膚があまりふやけていなかったところを見ると、水に浸かってそう長い時間も経っていない。
地面の上で殺されて捨てられたのでも、うっかり落ちたにしろ誰かに放り込まれたにしろ、水を飲んでの溺れ死にでもなさそうだ。
淡く微笑んでいた死顔から察するに、覚悟の身投げに違いないと思えた。
潮の流れと突き合わせて考えれば、遅くとも今日の夜明け前までに崖から身を投げたのだろう。
着物から身元が割れるのが嫌で、崖の上でえいっと脱ぎ捨てちまったのかな。随分と思い切りのいいことだが、身分のありそうな娘が孕んだ上にひとりで飛び降りるなんぞ、大いに訳ありなにおいがぷんぷんする。男が絡んでいるのは確かだろうが――
いや、これは下衆の勘繰りというものだ。気の毒な娘を葬った。それだけ承知していればいい。
しかし、だとすると、死装束が男の小袖ってのはまずかったかな。
水軍衆の女房や娘たちに当たれば、女物の衣装の一枚くらい提供して貰えただろう。が、不憫に思う気持ちを惜しみはしないが、行きずりの死体の為にそうそう手間を掛けてもいられない。大体、着物は結構な貴重品なのだ。
「……そうか。あいつに小袖を都合してやらんとなあ」
「あいつってだあれ」
「誰って、間切にさ。いくら擦りっ切れの着古しったって、そう何枚も着物は持ってない――」
うとうとしながら答えかけて、一瞬で目が覚めた。今のは誰だと思う間もなく、良い匂いのする白い靄が鼻先をふうっと横切り、閉じた引き戸の隙間から外へ出て行くのを見た。
まぎり、まぎり。
きものをくれたの。やさしいおのこ。
あたしのとのご。おややのててご。みいつけた、みぃつけた。
歌うように繰り返す愛らしい声がころころと笑う。
その甘い響きに弾かれて跳ね起き、引き戸へ飛び付いて、一気に開け放った。
宙空へぽっかりと浮かんだ戸の外は嵐が吹き荒ぶ真っ暗闇だ。何もかもを薙ぎ払い薙ぎ倒す風に吹き散らされながら、靄はゆるゆるとたなびいて行く。
まるで獲物を見つけた蛇のように。
ざあっと鳥肌が立った。戸口を掴み、身を乗り出し、あらん限りの息を振り絞って絶叫する。
「あんたの情夫(いろ)は違う男だ。俺の部下を連れて行っちゃならねえ!」
放った途端に飛ばされた声は、靄の尻尾にも届かず落ちる。業風の唸りに混じって、嬉しそうなくすくす笑いが、為す術もなく立ち竦む耳へ切れ切れに届く。
あ
た
し
の
いいひと、
みぃ、
つけ、
た。
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