九、
人里を遠く離れた深い山奥にある、いつの世のものとも知れない廃寺。
そう聞いて漠然と想像していたのは、鬱蒼とした木々の間に紛れて呆気なく見過ごされてしまうような、小さな破れ寺だった。
が、折り重なる枝を掻き分けて山腹から見下ろしたその場所には、山の斜面を切り拓いて作られた立派な伽藍が広がっていた。
「凄い」
自然と嘆声が漏れる。
地面は野放図に伸びた草花に覆い尽くされ、混在して生えている植木と野生の木の様子を見るに、百年やそこらは人の手が入ったことがないように思われた。しかし、整然と配置された塔や大小の建物は分厚く積み重なった濃淡の緑に埋もれながらも、蒼然とした偉容を辺りに払って佇んでいる。
「もしかすると歴史上の大発見かもしれないな、これ」
急傾斜を滑り落ちるようにして辿り着いた門前から仰ぐと、立派な構えの山門が建っていた痕跡が窺える場所には二本の柱が残っているだけだったが、半ば朽ちたそれも大樹の幹のように太く高い。その間を通り抜けながら、何の気なしにぽんと門柱を叩いた。
いやに音が響くと思った次の瞬間だ。
柱の一点にひびが入ったかと思うと、そこを起点に雷に打たれたかのように縦に裂け割れ、積もり積もった土埃や木屑を巻き上げて見る間にがらがらと崩落してしまった。
内側は腐り落ちたか虫食いかで空洞になっていたのか。間一髪飛び退いて埃にむせ返りつつ、今にもどこからか怒声が飛んでくるのでは、と首を竦める。
四方を黒々とした森に囲まれた伽藍は、それでもしんと静まり返り、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
仕事の合間にふらっと忍術学園に立ち寄った利吉は、例によって忙しい身だったらしい。
実技も教科も遅れが著しいと嘆きながら、来月の授業計画についてああでもないこうでもないと頭をひねっているところへ顔を見せた息子を、山田は仏頂面で出迎えた。そして「次の仕事まで少し間が空くので、そのあいだ荷物を置かせてほしい」という頼みを聞くと、今度は殊更なしかめっ面をした。
「学園を物置代わりに使うつもりか、お前は」
「それは申し訳ありません。でもお願いします。次の仕事が済んだら、母上のご機嫌伺いに一旦家へ帰りますから」
わざとらしい笑顔を見せつつ利吉が上手いところを衝く。厳(いかめ)しく装った山田の表情が少し崩れ、それが横目に見えて思わず忍び笑いをすると、じろりとこちらを睨んだ山田は取り繕うような咳払いをした。
「で? その短い暇で、どこへ遊びに行くんだ」
「遊びじゃないですよ。……いや、そうなのかな。実は今回の仕事中に気になる廃寺を見つけたので、ちょっと調べてみたいんです。三日もあれば戻るし、後々、何かの役に立つかもしれません」
相変わらず仕事中毒だとか、それしか時間がないのなら大人しくしていろとか文句を並べる山田の百面相を面白く眺められる程度には、この親子との付き合いも長い。口を尖らせて言い返した利吉と山田とで軽い口論になったが、わざわざ仲裁に入る野暮はしなかった。
それが四十日あまり前のことだ。
三日と区切った日限をはるかに過ぎても利吉は姿を現さず、山田はそれを気にする素振りを少しも見せない。部屋の隅に置かれた箱型の笈にちらりと目をやっては、ふんと鼻を鳴らすのがせいぜいだ。
だから、「出張のついでに様子を見て来ます」と申し出た。
「半助まで探検ごっこか」
出発間際、特大の苦虫を噛み潰して見送りに出た山田に、これ以上授業を遅らせるなよと釘を差された。
学園に戻る前にちょっと寄り道、では済まなかった道程を思い返しつつ、ひと気のない境内を慎重に巡る。
ここ最近の間に人の足で草を踏み分けた跡は見当たらない。猪や熊の足跡もないのは幸いだが、その代わり草はどれも元気に天を指しているから、歩きにくいことこの上ない。
正面の扉をぴったり閉ざした上を蔦で幾重にも覆われた本堂を横目に、その左手を通り過ぎる。
あの中にいる筈の本尊は何だろう。
この伽藍の建立が相当に古いのは建築様式から見て取れる。が、古いことは古く、間近で見れば壁はところどころ崩れ屋根も陥没したりしてはいるが、荒れ果てた廃墟というすさんだ雰囲気ではない。ずっと昔、ここにいた人間が皆いなくなってしまったその時から、訪う人もなく世間に忘れ去られるままにひっそりと「眠っていた」――ような、奇妙な印象を受ける。
ふと足を止めた。
奥に見えている庫裏と思しき建物に目を向け、耳を澄ます。
ぎい、と板の軋む音が微かに聞こえる。
草の間を蜥蜴のようにすり抜けた。
庫裏の壁にぴったりと身体を寄せ、かつては跳ね上げ式の雨戸が付いていたと思われる桟の嵌まった小窓から、暗い室内をそっと窺う。
中に明かりはなく、日の光もほとんど差し込まない。それでもじっと目を凝らしていると、薄暗い闇に溶け込んでいた人影がひとつ、ゆらりと動いたのが見えた。
見覚えのあるかたちをしている。
「利吉くん」
声を掛ける。
歩き回るのをやめて窓の方へ首を巡らせた利吉は、そこから顔が覗いているのに気付くと、眩しそうに目を細め「こんにちは」と挨拶した。
一見してそうとは分からなかったが、戸口の枠と敷居は随分と歪んでいたらしい。押しても引いてもびくともしない板戸を最後の手段で蹴り破り、その勢いで、戸の破片もろとも土間へ転げ込んだ。
「やれやれ。貴重な文化財を壊しちゃった」
「こんな所へ、ようこそ」
ひょうひょうと頭を下げる利吉に苦笑して、埃まみれになった着物を払う。
「確かに、こんな所で会うとはね。三日もあれば戻ると聞いていたけど、まさか、ずっとここにいたのかい」
「出られなかったんです」
「戸が開かなくて?」
軽口を返しつつ、いくらか薄暗さに慣れてきた目で利吉を見て、どきりとした。
最後に会った時よりもひと回り痩せている。父親に良く似た目元は落ち窪んで陰に沈み、げっそりと削げた頬から顎にかけての線は、その下にある骨の存在を主張して鋭い。大きく抜けた襟から覗く首筋は腱が浮き、いつもの着物は身幅が合っていないようにさえ見える。
絶句して思わず見詰めた目の前で、尖った顎が左右へ振られた。
「ずっと見張られていて、身動きできませんでした」
「誰に? ここには人がいるのか」
慌てて声をひそめ、今更ながら周囲へ目を走らせる。
人の気配を全く感じなかったから、途中からは警戒を解いてまったく無造作に動いてしまった。野伏か山賊が根城にでもしていたのか、利吉を閉じ込めておけるほどの相手なら、余程手強いに違いない。となると、世に知られていない忍びの隠れ家という線もあるか。迂闊だった。もしそうならば、この状況は完全に袋の鼠だ。
悪い予測とその対策を瞬く間に幾通りも考え出し、利吉の返事を待っていたが、一向に次の言葉が聞こえない。
どうしたのかと思えば、壊れた戸口の外へ窶れた顔を向けている。
「ここ、都の貴族が建てた寺です」
質問には答えず、問わず語りに話し出す。
「信心じゃないんだ。子の為に。外法に手を染めたから。人道に背くのは承知で、浅ましい欲を満たそうとして。出家できる訳がない。実際は幽閉です。二度と世間に立ち交じれなくなった身を、人目に晒さないように」
口跡ははっきりしているのにどこか箍(たが)の外れた調子で、説明なしには意図の分からない言葉を次々と重ねる。強張ったような表情は殆ど変わらずに乾いた唇だけがかたかたと動き、それを湿す舌が時折ちらりと閃く。
動揺や訝しさが声に出ないよう気を付けながら、慎重に話し掛けた。
「よく調べたね。どこかに由来が記してあったのかな。でも、その話は落ち着いてから聞こう」
「だけど、それでも幸せ、だと。――怖い。怖かった」
「利吉くん」
口調を強めて名前を呼んだ。緩慢な動作で首を巡らせようとした利吉の肩に手を掛け、くすぐるのと平手打ちの中間くらいの力で、ぱんと頬を叩いた。
ほんの一瞬身をすくませた利吉の両目がきらりと白っぽく光る。
視線を射込むようにしっかりと目を合わせ、骨張った肩を掴んだまま、声を和らげた。
「わたしも一巡りしたけれど、どこにも人はいなかったよ。監視は解けている。一緒に帰ろう」
「……ここから出られる」
「そう、出られる。それだけ調査ができたんだ、これ以上留まる理由もないだろう?」
「そうか……、そうだ、軛は取れたんだ。出て行ける! ああ、でも、日が落ちてからでいいですか」
こちらが戸惑うほどの喜色をにわかに浮かべた利吉が、しばしばと目を瞬いて言う。その言葉に首を傾げると、利吉は顔を上げ、珍しく子供っぽい表情で困ったような微笑みを浮かべた。
「暗闇に慣れてしまったから、日差しの下へ出てすぐに動ける自信がなくて」
「そうか。なら、日暮れまで待とう。――ところで、怪我をしたり体調を崩したりしていないか? 閉じ込められている間に食事はできたのかい」
辺りに椀や食器の類は見当たらず、土間に転がる何かの甕(かめ)は底が抜けているし、崩れ落ちて小山になった竈はもちろん役に立ちそうにもない。兵糧丸や携帯食料は持っていなかったのかと尋ねられた利吉は、しきりに首を傾げるばかりで、曖昧な言葉を口にしてはっきり答えられない。
逆に、不思議そうな顔で尋ねてくる。
「ところで今日は何年の何月何日ですか?」
「あー……、うん。とりあえず命があって何よりだ」
腹が減り過ぎてまともに頭が回らなくなっているのだと、それで理解した。
ひと月以上もほぼ絶食状態だったなら、日付の概念や自分の記憶も覚束ないこの胡乱な有様も仕方がない。なぜ利吉ほどの者がそんな状況に留まる羽目になったのかは疑問だが、それを確かめるのは後回しだ。
「神隠しにでも遭ったのかな」
冗談めかして言うと、利吉の表情が一変した。
眉が下がり、悲しげに睫毛を伏せて、目に見えて萎れてしまった。足元に視線を落とし「酷い」と呟く。
「ああ、ごめん。君は大変だったというのに馬鹿を言った――」
「酷い。みんな、酷い。責めて、蔑んで、厭うて、嘲る。愛しいひとと結ばれたいと願うことさえ卑しまれて。苦しい恋に悩む心すら救えない教えがどうして人の世にはびこっているのか、分からない」
「……おーい」
「だから、投げ出した。己の本性もこの世の理も何もかも。ここは暗くて暖かくて幸せ。ここなら一緒にいられるから。このままがいい」
掠れた細い声で淡々と言い募り、不意にその口が止まったかと思うと、利吉は激しく咳き込んだ。
調査で知ったこの寺の来歴(どうも仏道とはほど遠い生臭い話らしい)に関わる人物の逸話と、利吉自身の思考とが一緒くたになって、意識が混濁している様子だ。連れて帰ったら忍術学園にしばらく留め置いて養生させないと駄目だな、と考えた。
本人がどんなに嫌がっても、次の仕事の予定は取り消しだ。いや、それでは利吉の信用に傷がつくか。代役は有りかな?
ぜいぜいと喉を引きつらせる利吉を宥め、荷に括りつけていた竹筒を外す。
「水を飲んで。一口ずつ、ゆっくりだよ」
栓を抜き、手渡そうとして、ふっと疑問が湧いた。
庫裏は食事の支度をする場所だし、そうでなくともこれだけの規模の伽藍なら、中にいる人間が使う水を賄う手段が確保されていなくてはおかしい。
しかし、この伽藍には井戸の跡がなかった。
近くに水を汲めるような川も、池もない。大量の重い水を山を越えて外から運び込むなど論外だ。
水を必要としない人間はいない。
ここへ押し込めになったというそのひとは、一体どうやって水を得ていたんだ?
「え、」
正面から利吉が倒れ掛かって来た、と思った。
竹筒を放り出し、反射的に抱き止めたその下で、ぶちぶちと弾力のあるものが引き裂かれる音がする。
同時に目の前が斜めに傾き、歪んで、ぼやける。
首に齧りついた利吉の歯が喉笛を食い破り咬み千切る。外気に晒された気道がひゅうと調子外れに鳴る。
「邪魔をするのは許さない」
囁いたのは誰の声なのか。
それを考える暇もない。平衡を失った視界に赤い飛沫が弧を描いて天井まで噴き上がるのが映り、そして、意識が寸断された。
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