四、
下級生が困るからさっさと風呂に入れと部屋を覗いた同級生に促され、読みさしの本に心を残しながらようよう湯殿へ足を向けると、脱衣所には夜間鍛錬に出掛けたはずの文次郎がいた。
「珍しいな。もう切り上げか」
文次郎はとうに入浴を済ませたようで、濡れた身体を乾いた手拭いで拭きながらしきりに背中の辺りへ手をやっては、首を傾げている。
声を掛けられて初めて隣に人が来たのに気付いたらしい。驚いたように横を向き、それと同時にぐっと眉をしかめた。
「なんだ、仙蔵か」
「なんだとはなんだ。背中がどうかしたのか」
「うん、いや、鍛錬中にな……、どうなってる?」
「んー」
文次郎が半身になって向けた背中をひょいと覗き込む。
左肩の後ろの窪みからまっすぐ下へ向かって太いミミズ腫れが走り、その周囲にぼつぼつと発疹ができている。温まって上気した肌の上でそこだけ一際赤らんで見えるのが、いかにもたちの悪い熱を持っている様子だ。
と、見たままのことを告げると、文次郎は不機嫌そうに肩をさすった。
「やっぱりか。洗い流せば収まるかと思ったけど、痛痒くてかなわねえ」
「温めたのが悪かったんじゃないか? 服の中に毒虫でも入り込んだような有様だな」
それとも毒蛾の鱗粉を浴びたのか、ひどくかぶれる草の実を潰したのかと不穏な軽口を叩き、刺し傷か噛み傷がないかと目を凝らして検分してみる。
男の裸の背中などまじまじと見て楽しいものではないなと思いつつ、日焼けしそこねて素の色を残している肌を眺めているうちに、ふと悪戯心が湧いた。
それに気付かない文次郎が溜め息混じりにぼやく。
「井戸端で水を浴びたほうが良かったかな」
「見るからに痒そうだが、掻いて掻き壊してしまうと治りが悪くなるからな。触るなよ」
「言われんでも分かってる」
「そう、かっ」
ぱちん! と、さして広くない脱衣場に高い音が響く。
「ってぇ!」
手首のしなりを利かせて景気良く背中をひっぱたいたその音の大きさに、脱衣所にいた他の生徒が何事かと振り返る。ほどなくして、貝殻骨の下に赤い手形がじんわりと浮き上がった。
「紅葉が咲いたな」
「何しやがる、痛てぇだろが!」
「いやすまん、つい魔が差した。部屋に戻ったら皮膚炎に効く薬を塗ってやるから勘弁しろ」
そもそも紅葉は色づくもので咲くものじゃない、お前の手なら紅葉より八ツ手だと生真面目な文句を言う文次郎にヒラヒラと手を振り、湯気のこもる洗い場へ下りる。
それほど出遅れたつもりはなかったのに、洗い場にも湯船にも既に人気(ひとけ)はなかった。
烏の行水よりはやや丁寧に湯を使って部屋へ戻る途中、月明かりのさす長屋の庭で蝉の鳴く声がした。
気休め程度に吹く風を入れるために、部屋の戸は開け放してある。
その戸口から差し込む明かりに照らされて、蒸し暑い部屋の中で文次郎が文机に突っ伏しているのが見えた。
「……あーあ」
思わず嘆息する。
寝間着を片肌脱ぎにして肩から背中までそっくり晒し、左手はだらりと床に落ちて、右手を顔の下に敷いて居眠りをしている。とても後輩には見せられない締まらない姿だ。
だらしない格好を嫌う文次郎がここまで着衣をはだけるとは、余程虫刺されの疼きが我慢ならないのかと、足音を忍ばせ文机に近寄った。
机上で灯る皿の火がふわりと流れ、小さな炎が作る陰影が生き物のように揺らめく。
それに一瞬気を取られた時、仙蔵、と掠れた声で名前を呼ばれた。
「どうした。気分が悪いのか」
顔を横向きにしてぺったり伏せた文次郎に素早く顔を寄せる。
眠ってはいなかった。
目をいっぱいに見開き、浅く早い呼吸をして、頭から水をかぶったばかりのように汗を浮かべている。火を映してちかちかと光る瞳は落ち着きなく動いているものの、どこにも焦点が合っていない。呼びかけてもしかと答えず、不明瞭な言葉を呟くばかりだ。
明らかに尋常な様子ではない。
大したことはないと思って気軽にからかったが、さては遅効性の強毒を持つ虫だったかと、胃の腑の底がひやりとした。
「俺の中になにかいる」
不意にはっきりした声で言った文次郎の黒目がくるりと動く。
突拍子もない言葉に困惑して、思わず聞き返す。
「何だって?」
「そいつに臓腑を融かされた」
「何を言っている」
「身体が、動かない」
「幻覚だ。毒に中って熱が出ただけだ。ほら、」
断言して、うわ言を並べる文次郎の首筋に触れ、ぎくっとした。
熱があるどころか、汗で湿った肌が氷のように冷たい。脈拍は遠く、弱く、のろい。まるで――瀕死のひとのように。
「痛い――いた、い、あああ、ああ、あ」
文次郎の声が軋む。身体中がぎゅうっと強張り、意識朦朧のくせに必死で苦痛を堪えようとする指が、机や床を掻き毟る。
「裂かれ、る、痛い、」
「しっかりしろ、気を確かに――何が、何だこれ、なあ、おい、文次郎?」
「仙蔵、たすけ、」
爪が剥がれた指先から血が滲みだす。そのあざやかな赤が目を刺して我に返り、急いで腰を浮かせた。
「少し堪えろ。すぐ伊作を呼んでくる」
それに伊賀崎も叩き起こす、と立ち上がろうとした鼻先を大きな影が塞いだ。
信じられないくらい盛り上がった文次郎の背中の皮膚が、脈動するように波打っている。
声を失って居竦む目の前で、ミミズ腫れに沿って開いた肉の裂け目を割って、節のある枝のようなもの――それは蟷螂(かまきり)の前脚に似ていた――が六本、突き出したのが見えた。
屈伸するように二、三度うごめいたその脚が、裂け目の周囲に掛かる。
内側に残っている部分を引き抜こうとしているのだ。
が、戯れに叩いた手の跡にかかる部分がどうしても裂けない。
文次郎の内側から出て来ようとしているものは苛立ったようにぎりぎりと裂け目を押し開き、その乱暴な動きに翻弄されるまま、力を失った文次郎の身体がぐらぐらと揺れる。
まるで蛹から脱皮しようとする虫のよう。
いや、この禍々しさは、宿主の中で孵りはらわたを食い尽くした挙句に身体を突き破ろうとする寄生虫のようだ。
こいつが身体から抜け出したら、宿主は――文次郎は、どうなるのだ。
呆然と見守る顔に生ぬるい飛沫が撥ねかかった。
はっと身じろいだ拍子に、宙を薙いだ腕が机上の灯火皿を弾き、火の点いた灯芯が皿から零れ落ちる。
睫毛を焦がすばかりの近さで燃える火に照らされて、文次郎の目は瞬きもしない。
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