一、
気が付くと、白っぽい明るさの中にいた。
目の前で伊作と伏木蔵が薬箪笥の在庫合わせをしている。
横を向くと、左近が洗濯した包帯をくるくると丁寧に巻き直している。
見慣れた医務室の、いつもの放課後の風景だ。
そう意識するのと同時に、徐々に周囲の様子がはっきりした輪郭を持って立ち上がって来る。隅に寄せた衝立とその前に重ねた円座。薬研や秤がきちんと整理されて並んでいる棚。閉ざした障子戸の向こうから差すやわらかい光と、その光の中にいる保健委員が五人。――五人。
あれ、と思った。
首をねじって斜め後ろを見る。
少し離れた位置に、筵に広げた赤く丸い実をひとつずつ手拭いで磨いている数馬がいる。視線を感じたのか、ふと顔を上げた数馬は、目が合うと黙って小さく微笑んだ。
「乱太郎。手が止まってる」
つっけんどんな声に慌てて向き直る。しかめっ面の左近が顎で示した辺りを見下ろすと、微かな米ぬかの香りとあたたかな陽の匂いがする敷布を、両手いっぱいに掴んでいる。
そう言えば、表の物干しから取り込んできた敷布を畳んでいる最中なんだっけ。
どうしてそんなことを忘れていたのか不思議に思いながら、作業を再開する。
「居眠りかよ。仕事中にぼんやりするなよなぁ」
「まあまあ、左近。明日が楽しみで、つい気もそぞろになっちゃうんだろ?」
笑みを含んだ口調で伊作が笑い、ね? と取り成し顔に振り返る。
明日。明日――は、何があるんだっけ。
「興行、僕も行きたかったなあ。怪士丸はやったことがあるんだよね」
手元の目録にちょいと印を書いた伏木蔵が羨ましそうに口を尖らせる。
そうそう、そうだ。
幻術使いの里芋行者に頼まれて、河原の小屋で見せ物の手伝いをすることになっているのを思い出す。以前と同じくきり丸、久作、雷蔵の図書委員3人に加えて、変装名人の三郎と一緒に、今回は他の用があって参加できない怪士丸の代理で。
ただ、今回は口上役や木戸番だけではなく、演し物にも出ることになっている。
「代わってもいいよ? でも、そしたら伏木蔵、女の子の格好をするんだよ」
「ええっ。やだあ、どうしてさ」
「明日の演目の目玉は"失せ物"なんだ。私ときり丸は女童(めのわらわ)役で舞台に上がるから」
「うせもの、って?」
「ああ、ええっとねえ」
首を傾げる伏木蔵にどう説明したらいいかと、きょろきょろ辺りを見回す。皆に半ば背を向ける格好で黙々と手を動かしている数馬が目に入り、ふといたずら心が湧いた。
敷布を両手に持ち直し、そっと膝立ちになる。
「まず舞台の真ん中に人が立つんだよ。それから大きな布を、こうやって――ふわっと被せる!」
ぱっと腕を伸ばして広げた敷布で、数馬を頭の上から勢い良くすっぽりと覆った。うわ、と身じろぐ数馬を敷布ごと捕まえながら、「いち、に、さん」と大声で数える。
「――そして布をどけるとあら不思議、そこにいた人がどこかへ消えちゃいました、っていう幻術のこと」
「もう。ひどいなあ、乱太郎」
敷布を掻き分けて顔を出した数馬が苦笑交じりにぼやく。失礼しました、と笑いながら頭を下げると、数馬はその頭を軽く小突き、拭き終えた実を盛った籠を手に立ち上がった。そのまますたすたと出入口へ向かい、引き戸を開けて外へ出る。
ぱたんと音を立てて戸を閉じた。
廊下を歩く足音と一緒に障子紙の上を影が横切り、その影はやがて壁に阻まれて途切れ、遠ざかる足音もいつしか聞こえなくなる。
「手が止まってる。って言うの二回目だぞ、集中しろ集中」
「はあい。ごめんなさい」
左近の注意に首をすくめて戸から目を離し、床に落ちた敷布を引き寄せた。
大物だからきれいに畳むのは結構大変だ。それでも慣れた作業だから、二枚目、三枚目と順調に片付けては、専用の行李に角を揃えて仕舞っていく。そうこうしている間に、左近が一足早く声を上げる。
「包帯は全部巻き終わりました」
「ご苦労様。乱太郎は?」
「あとちょっとです」
「そっか。薬の確認も済んだし、それじゃ、あとは新野先生にお任せして今日はおしまいにしよう」
ざっと目録を見渡して伊作が言う。はーいと返事をしつつ行李の蓋を拾おうとして、床に敷いたままの筵が目に入り、挙手した。
「数馬先輩にも、おしまいだってお伝えして来ます」
「ん?」
「外にいらっしゃいますから」
その言葉に伊作が真顔で首を傾げる。左近と伏木蔵が顔を見合わせ、こちらも同時に首をひねった。
「かずまって誰? 乱太郎の友達?」
「ええー。何を言い出すのさ、伏木蔵。いくら数馬先輩の影が薄いったって、つまんないしヒドいよ、その冗談」
「いや、お前が何を言ってるんだ。目を開けて寝ボケてるのか」
「只今の保健委員は乱太郎と伏木蔵、左近、それに僕、で四人だよ」
訝しげに左近が言い、伊作は手を掲げて、ゆっくり指を伸ばして数えてみせる。いち、に、さん、し、と人差し指から小指まで順番に天井をさす指の、親指はずっと折られたままで、諭すような伊作の表情に底意は窺えない。
「……やだなあ。良くないですよ、こういうの。さっきまでそこで、三年生の三反田数馬先輩が仕事をしていたじゃないですか。私がふざけて敷布を被せて――伏木蔵、見てたでしょ?」
「だから、誰さ? 三年生なの? そのひと」
引きつりそうになる頬に無理に笑みを浮かべて同意を求めた鼻先を、伏木蔵がぴしゃりと潰す。うんうんと頷く左近は、訝しむのを通り越して、正気を疑うような顔つきになっている。お前、この暑さでどうかしちゃったんじゃないの。
いもしない人が居ると言い張るなんて。
三人三様に注がれる視線の、その先にある瞳の色は一様に透徹だ。嘘やからかいは微塵もなく、ただ不可思議な言動に戸惑い、危ぶんでいる。
それに気付いた瞬間、総毛立った。
「だけど、……だって、なんでそんなことを言うんです? 煙みたいに消えちゃって、最初からいなかったみたいなこと。本当に、たった今までここにいたの、見えなかった筈ないじゃない。そんなの、」
狼狽えつつも言いかけた言葉が舌の先で蒸発する。霧散した言葉は同時に身体の熱と血の気を奪って行く。
幻術の真似事をして「そこにいた人がどこかへ消えちゃいました」と宣言したのは、確かに自分であるのだ。
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