五、
「私は滝夜叉丸で、牛若丸ではない!」
そう口走った瞬間、間抜けなことを言ったと後悔した。
怠惰にも橋の欄干に頬杖を突き、頭を突き出してこちらを見下ろす三木ヱ門の目に、案の定冷やかすような色が浮かぶ。
それにカチンと来た。ぐっと頭上を睨んで足を踏ん張り、腕を振り上げる。
「お前がこの橋は通さないなどと言うから」
足の下で擦れ合った小石がきしきしと硬い音を立てる。
「それに、そんな格好をしているから」
当世風の具足をまとい、鼻から下を鈍い朱色の面頬ですっぽり覆った三木ヱ門を、糾弾するように指差す。
「五条の橋を連想して自ずと溢れ出した私の教養に、ひと捻りした冗談を言わされてしまったではないか」
牛若丸と武蔵坊弁慶の出会いは京の五条の橋の上。大薙刀をかいなに抱き、刀を寄越せと立ちはだかる剛力無双の荒法師に対するは、笛の腕前も見事な水干姿の美童。誰もが知っている出来過ぎの御伽話とこの情景を無意識に重ね合わせ、それが自然と口から出たのだと、声を張り上げて力説する。
その言い訳めいた主張を聞いた三木ヱ門は、呆れたように肩を竦めた。
「冗談にしては面白くなかったぞ」
「面白がらせてやる気もない」
「ふふん。滑ったのは認めないわけだ。お前ってやつは、いつもそうだな」
面頬の内側でくつくつとこもった笑い声を立てる。半分がた千切れた具足の袖に辛うじてぶら下がっている札板が、三木ヱ門の肩が動くにつれて危なっかしく揺れる。
ついさっきあんなに怒鳴ったくせに、今はゆったりと鷹揚に構えた態度で、いかにも可笑しそうに笑っている。顔の中で唯一はっきり見える目は、聞き分けのない子犬や子猫を眺めるように優しげでさえある。
なんなのだ、この余裕は。
腹の中で煮えくり返る憤懣をぶつけてやろうと口を開きかけた瞬間、笑みを含んだ声のまま三木ヱ門が言った。
「――で、本当にこの川を渡りたいのか?」
川面を滑ってきた冷たい風が、ひゅうと頬をかすめて吹き過ぎた。
辺りの空気はしらじらとして明るい。
しかし、退屈なほどに変化のない風景だった。
土を突き固めた堤と砂礫の河原には草木の緑ひとつ無い。その間を、思い切り大声を出せばどうにか対岸と会話ができそうな、そこそこ幅の広い川が流れている。時折川底の小さな窪みで渦を巻いて白い泡をつくる以外、流れる水は少しの濁りもなく澄み渡り、川の始まりも終わりも遠く霞んで見えない。
河原に立って振り仰げば、そこには向こう岸とこちらの堤を繋ぐ立派な橋が架かっている――のだが。
足の向くままぶらぶら歩き、ゆるい弧を描く橋の前へ来かかった時、橋詰めには具足姿の三木ヱ門がぼんやりした風情で立っていた。
こいつはこんな所で何をしているのだと不審に思いつつ、橋を渡ってみようと足を踏み出した途端、ゆらりと近付いて来た三木ヱ門に通せんぼをされたのだ。
「邪魔だ。子供みたいな真似をするな」
「滝夜叉丸、お前、どうやってここまで来たんだ」
「そんなことは知らない。お前こそ、その格好はなんだ? ろ組は潜入実習でもあったのか? その様子だと、劣勢側に紛れてしまったようだな」
身に着けた具足は旗印もなく、篭手や草摺が無残に破れ、胴には縦横に亀裂が走ってぼろぼろで、どこから見ても非の打ち所のない敗残兵の姿だ。そのうえ腰帯に突っ込んだ火縄銃は銃身が大きく鉤型に曲がり、細かな部品などどこかへ吹っ飛んでしまっている。
弾薬が尽きて鈍器代わりに振り回したのだろう、火器にかけては学園随一と豪語するくせにそのざまかと鼻で笑うと、三木ヱ門は少しばかり尖った目つきをした。
「おや、怒ったな。だが時勢を味方につけるのも実力の内だ。お前にはそれがなかったということだな。その点私など、他愛無い籤ひとつとっても、その引きの強さと言ったら――」
「……言うまでもないと思ってずっと言わなかったがな。お前の話はつまらないぞ!」
話すことといえば我が身の賛美と自慢話を綿々と挙げ連ねるばかり。相手が何を言いかけようと耳を貸そうともせず、鼻につくわ聞き飽きたわで露骨にうんざり顔をされても、お構いなしにぐだぐだと喋り続ける。その図太さだけは大したものだと思っていたが、全然、全く、決して、羨ましくはない。
お前が気分よく長広舌を振るえるのは、平滝夜叉丸とはそういう奴なのだと皆が諦めたからこそだと自覚しろ!
反論の暇もない怒涛の怒声に思わずぽかんとすると、いくらか舌足らずな低くこもる大声で一息にぶちまけた三木ヱ門は、我に返ったように目を瞬いた。そしてどこかしら照れた様子でその目を伏せ、妙におっかなびっくりな仕草で傷だらけの手を伸ばす。
とんと肩を突かれた。
大して力を込めたとも思えないその一突きに呆気なくよろめき、思わずあわあわと両手を泳がせた。
「とにかくお前は帰れ、滝夜叉丸」
「――ふんっ。どうせ浅い川だ、橋など通らずとも歩いて渡ってやる」
軽く押しのけられたのが癪に障り、三木ヱ門の腕を振り払って、憤然と言い捨て堤を下りる。
別にどうしても対岸へ行きたいわけではない。が、こうなれば意地だ。
「おい。橋を通さないと言われて、むきになっているだろう? さっさと――」
溜息をついた三木ヱ門が欄干に肘を乗せ、身を乗り出して河原の方を覗き込む。図星なのがまた業腹で、大声で言い返した。
「私は滝夜叉丸で、牛若丸ではない!」
ひやりした風のひと撫でに頭の熱をさらわれて、ふと、疑問が湧いた。
この状況は一体、何なのだ。
こんな奇妙な場所は知らない。大抵の城の御貸具足は頭に入っているのに、三木ヱ門が着けているそれには見覚えがない。大体、見慣れない格好のうえ顔をほとんど隠しているのに、橋の袂にいるのが三木ヱ門だと一瞥して分かったのは何故だ。
そして、そして――背丈にそれほど差がないはずの三木ヱ門に、頭ひとつ分ほども上から見下ろされていたのは、どういうことだ?
「どうしてもと言うなら、川を渡る前に上を見ろ」
橋の方角をはっと見上げた。面頬に手をかけた三木ヱ門がゆるゆると首を振る。
「こっちじゃない。裏だ。よく見てみろ」
「裏――、橋の、裏?」
上を向いた視線をそのまま横へ滑らせる。
赤子の頭ほど大きな目でこちらを睨めつける二本角の鬼が、逆さまにすっくりと立っていた。
爛々と光る黄金色の瞳と目が合った途端、虎の如き牙を剥いて鬼がげらげらと笑い出す。その哄笑は空気を震わせ、地面を揺るがし、鏡のように静かだった川面の水を巻き上げて荒波を引き起こす。
砕けた波の飛沫が鼻先を舞う。
その冷たい感触に弾かれ、泡を食って身を引いた。
「話の通じなそうな輩だろう。だからこそ、そこに張ってるらしいけどな」
三木ヱ門の落ち着いた声が降って来る。
そんなのと好きこのんでやり合いたいか? お前はまだその時じゃないんだ、だからさっきから帰れって言ってるのに。
「三木ヱ門、それなら、お前も、」
鬼から目をもぎ離し、橋の上の同級生を仰ぐ。紫の制服を着ていなくても、いつの間にか背が伸びていても、あれは紛れもなく不倶戴天の同級生であるはずなのだ。
「いいや。僕にはもう、この橋の向こうしか行き場がない」
三木ヱ門が面頬を外して無造作にぽいと放る。
下顎の吹き飛んだ真赤な喉に長い舌がぞろりと動き、「僕」などと言ったのは久し振りだと、少し笑った。
※ブラウザバックでお戻り下さい。