八、
爽やかな秋の日差しと青く澄み渡った高い空、赤や黄に色づきかけた木の葉や、可憐に咲く一群の花々。
這々の体でたどり着いた野原に広がっているそんな長閑な光景は、目に入るそばから色を失い、白と黒で支離滅裂にかき乱されていく。耳の中では相変わらず蜂の大群が唸りを上げて旋回中だ。
「あのー、閃光音響弾の感想を聞かせて下さい。どうでした? 有効でした?」
合流地点で待ち構えていた早すぎた天才は、潜入組が野原へ駆け込んで来るなりよろよろと倒れ伏したのを気遣うそぶりすら無く、目を輝かせてにじり寄ってくる。
癪に障って跳ね起きた。
その弾みで頭が早すぎた天才の顎をがつんと突き上げたが、知ったことではない。
「すげえ威力だよ、ふざけんな馬鹿野郎!」
忍び込んだ砦からいざ脱出する時、追手の牽制に投げつけた、強力な光と轟音を発する新型手投げ弾の効果は絶大だった。お陰でちかちかと忙しなく明滅する視界や、両手で耳を塞いで叫びだしたくなるくらいの耳鳴りが、未だに不愉快で仕方ない。
それでも炸裂に背を向けていただけ自分はまだマシなのだ。
爆発の瞬間をまともに見てしまった九丁目は見当識を失って真っ直ぐ立つことすらできなくなり、荷物もろとも引っ担いで辛くも逃げおおせたはいいが、今も目をつぶって頭をゆらゆらさせながら、子供のように足を投げ出してぺたんと座り込んでいる。
それを横目に、ようやく収まってきた耳鳴りをなだめつつ早すぎた天才に食って掛かる。
「お前、あれは人体に害がない爆弾だっつったじゃねえか!」
「それは誤解だ。殺傷能力はないと言ったんですよ」
大体、無害だったら足止めにならないでしょうと、顎をさすりながら至極当然そうに言う。
「誤解だと? ただの説明不足だ! 心臓が弱いやつならびっくりして死んじまうぞ」
「もしそうなったとしても、それは単に不幸な事故です」
「ならこいつのこの有様も事故だってのか!?」
目を閉じたままにこにこと虚空に向かって笑いかけ、瞼の裏の夢寐から帰って来ない九丁目を指さして語気を荒げる。
凄惨な戦場に晒されて正気を失くした兵士にも似たその様子は見るからに不安定で、無邪気なほどの笑い顔は薄ら寒くさえある。音と光で相手を無力化する画期的な新作だ、是非に試せと押し付けられたものがこんなに物騒なシロモノだと知っていれば、絶対に使わなかった。
責め立てられたもののあまり堪えた様子のない早すぎた天才は、やや首を垂れて座っている九丁目を遠目からしげしげと観察すると、うーんと唸って首をかしげた。
「さてこれは……驚き過ぎて魂が抜けたのか、衝撃でぼんやりしているだけなのか」
「何でもいいからさっさと治せ」
「無理ですよ。原因が分かりませんし、私は科学者だから医術は専門外です」
「後始末も満足にできねえもんを作るんじゃねえよ!」
「私は正気ですよ」
不意にぱちりと瞼を開いた九丁目が、いつもと変わらない口調でごく尋常な口をきいた。
早すぎた天才に掴みかかろうとしていた手が持って行き場に困って無意味に泳ぐ。とりあえず九丁目の顔の前にかざして振ってみたが、黒い瞳はそれを追おうとせず、一点に留まったまま動かない。
「……耳は聞こえてるんだな。目は、まだ駄目か?」
「正直言ってよく見えません。でもね、いいんです」
「良い訳がないだろう!」
「いいえ。いいんですよぉ」
九丁目の口許が崩れるように緩む。
大発見です。こうやって目をつぶると、桃源郷に行けるんです。
花がいっぱい咲いた桃の木が里山を埋め尽くす中を通り抜けると、そこにはきれいな田畑や家が並んでいて、穏やかで優しい人たちがせっせと働いています。大きな湖に船を浮かべて魚を獲っている人もいます。
ひょっこり迷い込んで来た私を、みんなが親切にもてなしてくれるんです。
外の話を聞かせてとねだる人懐っこい子供たちは可愛くて、吉祥天みたいに綺麗な女の人もいて、着るものも食べるものも豊富にあって、それはそれは平和で幸せな場所で――
「いよいよヤバいぞこれは」
「唐辛子を口に突っ込んでみましょうか」
うっとりした顔つきで語る九丁目に、流石に危機感を覚えたらしい早すぎた天才が大雑把な提案をする。
それが天才の言うことかと呆れ半分、腹立ち半分に頭を掻きむしり、悩んだところでどうにもならないと思い至って、腰に提げていた水筒を手に取った。
「……目にでかいゴミが入ってると仮定して、とりあえず目を洗ってみよう」
「気休めだと思いますけど」
「お前ほんと城に戻ったら覚えてろよ。おい九丁目、目ぇ開けろ」
ぴったり閉じた瞼に指をかけてこじ開けようとすると、九丁目は座ったまま後ずさりいやいやと首を振った。
「やめて下さいよお。私、ここに居たいんです」
「頭の中の理想郷に引きこもって何が楽しい。それならほれ、お前の目の前に現実離れしたいい男がいるだろうが」
「幻覚の美女と比べたもんですかねえ」
ぼそっと突っ込む早すぎた天才を無視し、頑なに閉じようとする九丁目の瞼を強引に押し開く。
顔ごと上を向かせたどんぐり眼に水筒の水を注ぎ込もうとして、ふと、違和感に囚われた。
さんさんと明るい日差しの下、濁りのない白目の真ん中で丸い黒目が凝(こご)っているのが見える。目に眩しく落ちかかる日光にも、睫毛に触れるほどの至近距離で動くものにさえも、相変わらず反応しない。
憂うべき状態だが、それはさっきと同じだから、まだいい。
しかしよくよく気を付けて見れば、真正面から顔を突き合わせているというのに、九丁目の瞳にはこちらの姿が映り込んでいないのだ。
「瞳孔はどうなってます? 縮んでたり開いてたりしてません? 改良の参考に――」
一方的なにらめっこをする後ろから、早すぎた天才が呑気に近付いて来る。それと同時に、じいっと見詰める瞳の中を、黒い影がちらりと横切った。
なんで俺は映らずこいつは映るんだと訝しんだ瞬間、喉がひゅっと妙な音を立てた。
通り過ぎた人影は、ひとつではなかった。
右から、左から、牛を牽いた男や籠を抱えた老人が次々と現れては、にこやかに挨拶を交わしてすれ違う。その背景には立派な家並みや沢山の実をつけた大樹が広がり、追いかけっこに興じる子供たちが元気に駆け回っているのが見える。
賑やかな市か、豊かな村か、そんな光景が九丁目の瞳に映っている。
何度も瞬きをした。痛いくらい目を擦った。
それでも、何度覗き込んでも九丁目の瞳の奥の桃源郷は消えず、人々は楽しげにさざめている。
行き交う人の中のひとりが足を止めた。ゆっくりと顔を上げ、こちらを向く。
裾や袖がやたらにひらひらした衣をまとった美貌の女は、赤い唇を曲げて艶やかに微笑むと、ほっそりした腕を伸ばして優雅に手招きをした。
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