七、



 窓の外で、先生に呼び止められた五年生が立ち話をしている。
 話しながら小刻みに頷いているらしい。頭が動くたびに、括り上げた長い髪がゆさゆさと揺れる。
「……どっちかな」
 校舎の中からそれを見下ろしていた八左ヱ門は、黒板消しをはたきながら何の気なしに呟いた。
 教室にいる掃除当番の中には雷蔵も、今日も今日とてその顔を借りている三郎もいない。そうなると、下に見えている雷蔵の顔をした生徒は本物の雷蔵なのか変装した三郎なのか、見た目だけでは判断ができない。
「つまり、今あそこにいるのは雷蔵でもあるし三郎でもある」
「お? 勘右衛門、どした」
 八左ヱ門の横からひょいと顔を出した勘右衛門は窓の下を見て、それから掃除中の教室をきょろきょろ見回し、最後に八左ヱ門を見てへらりと笑った。
「ぼけっと突っ立ってるのが廊下から見えたから、なにか面白いものでもあるのかと思ったんだけどさ。気になるなら呼んでみればいいじゃない」
 そう言って勘右衛門が大きく息を吸い込んだので、八左ヱ門は慌ててその背中を引っ張った。
 例えばここから「おーい、雷蔵」と呼び掛けたら、雷蔵ならば返事をするだろうし、三郎だったとしても「違うよ」と反応するはずだ。その瞬間に外にいるのは雷蔵か三郎なのか分かる。
 ただし今は先生と会話中だ。もしかすると重要な話をしているかもしれないのに、用もなく声を掛けて邪魔することはできない。
「雷蔵でもあり三郎でもあるって、呼んでみるまでは五分五分ってこと?」
「五分と言うか、あそこにいる誰かの中で雷蔵と三郎が重なり合って存在している状態なわけ。どっちなのかは分からないけど、どっちかなのは確かだから」
「その説が成立するには、三郎以外に雷蔵に変装している人間がひとりもいないという前提が必要だな」
「ん?」
 第三の声に八左ヱ門と勘右衛門が振り返ると、兵助が書類綴り片手に教室へ入って来たところだった。黒板消しを持った手を振りながら八左ヱ門が声をかける。
「よ。誰か探してるのか?」
「うん。今、見つけた」
 そう言って兵助は、持って来た綴込みでぺこんと勘右衛門の頭を叩いた。
「学級日誌が教室に置きっ放しだったぞ、学級委員長。まだ書いてないのか? 先生に提出するんだろ」
「あれ、そうだったっけ」
 首をひねり、受け取った日誌をめくりながら勘右衛門が窓際から離れる。代わりにそこに立った兵助が、一体何を見ていたんだと身を乗り出して下を覗く。
 雷蔵の姿をした誰かは、まだ先生と話を続けている。
「声を掛けられない現状では、あれは雷蔵で同時に三郎か。とんち話みたいだな」
「まあな。雷蔵と三郎がそれぞれ個別に存在している状況を俺たちは知っているし、認識できるけど、一人の人間の中に雷蔵と三郎が混ざって存在しているという状況は、経験がなくて認識できないからな」
「うん?」
「だけど、不破雷蔵という人物は確定的な存在ではあるんだよな」
 兵助が真顔でややこしいことを言い出し、八左ヱ門は黒板消しを窓の外へ落としそうになって慌てて受け止めた。ボフッと音を立てて湧き上がったチョークの粉が煙幕のように漂う。
「えーと、どういうこと?」
「客観的に観察できる様態が一定だからさ。いつどこで誰が見てもあれは雷蔵だ、もしくは雷蔵の姿だ、と認識できる。中身は三郎かもしれないけどね。下にいるあれを見ても、勘右衛門がいるなーとは思わないだろ」
「うん。思わない」
 話の中に名前が出た勘右衛門は我関せずといった様子で、窓の横の壁に寄りかかってパラパラと日誌を眺めている。
「逆に三郎は姿がコロコロ変わるから、あれは確かに鉢屋三郎だと外見で判断できる要素がない。八左ヱ門を見ても木下先生を見ても、くの一教室の女の子を見てさえも、あれは三郎か? それとも本人か? と疑ってみなきゃならない」
「……んー、うん。それがまさに今の状況だよな」
 あそこで先生と話している雷蔵の姿をした誰かは、雷蔵か、三郎か。
「つまり鉢屋三郎という人物の存在は、三郎が変装している相手と一緒にいる時を除いて、常に不確定なんだ。その存在を確定させるには、三郎が変装しているかもしれない人物が"確かに本人である"ことを一人一人証明して、可能性をひとつひとつ潰していくしかない。言い換えれば、三郎である可能性を排除するんだ。それが完了するまでは、鉢屋三郎は五分の確率でしか存在できない」
 三郎が顔を借りている"かもしれない"相手は学園内に限らない。なまじ変装名人であるばかりに対象となるのは老若男女を問わず、この世にいるほぼ全ての人間にまで広げる必要がある。
 それゆえに対象者全員の本人確認をやり遂げるのは現実的ではない。
 ということは、これこそが鉢屋三郎だと十全に確定することも、ほぼ不可能だ。
「しかし半分だけ存在している人間というのはあり得ない。あり得ないということは認識もできない。そして他人から認識されない以上、三郎はどこにもいないと言ってもいい」
「いや、でも、目の前にいない時も、三郎は確かにいるじゃん。忍術学園五年ろ組の学級委員長、変装名人・鉢屋三郎はさ」
 黒板消しを振り回して八左エ門が反論すると、兵助は重々しく頷き、それから首を振った。
「そう、その通り。だけど、観念的には存在していない」
「……脳が溶ける」
「そりゃ大変だ」
 頭を抱えて呻く八左ヱ門の後頭部をぽんぽんと叩き、鼻栓つめるか? と真面目くさった顔で兵助が言う。
「なんだよ今の。禅の公案とかソレ系の話?」
「いや、詭弁とこじつけと屁理屈。理路整然と見せかけて隙だらけで破綻しまくってる」
「なんだよぉ!」
「もう一捻り、付け足すとぉ」
 日誌から顔を上げた勘右衛門が、妙に間延びした口調で口を挟む。
「三郎本人はいくら外見が変わっても、半分だけの存在の間でも、自分は鉢屋三郎だということはちゃんと分かっている。そのような認識をする主体が存在している限りは、その認識を客観的に観察できない状況で――人の頭や心の中は覗けないから、これも"常に"ってことだ――主体が『自分は鉢屋三郎だ』と宣言してその立ち位置が決定され、同時に顕在化するまでは、三郎はあらゆる場所に偏在していると言える。別に外見が決まっている必要はないし、どこにでもいて、どこにもいないんだよねえ」
 もっとも、これは三郎だけじゃなくて意思を持つもの全部に敷衍できる概念だけど――と言って、勘右衛門は笑う。自分に注目した八左ヱ門と兵助を等分に見回し、ゆっくりと口角を持ち上げて、

 その笑みだけを空中に残し、周囲の風景に溶け込むように勘右衛門が消えた。

 三回、瞬きをする間があった。
「ううぇ?」
 隣で兵助が変な声を出したので、八左ヱ門は自分が幻を見たのではない事を知った。
 窓から吹き込んでくる生ぬるい風に煽られて、床に落ちた日誌のページがひらひら揺れている。そこから目をもぎ離し、黒板消しをしっかりと掴んで、八左ヱ門はおそるおそる兵助を見た。
「今のは、勘右衛門、じゃないよな……?」
「勘右衛門の姿をした誰か、じゃなくて"何か"? ――って、何?」
「あ、兵助。い組の学級日誌、どこにあるか知らない?」
 凍り付く二人に、廊下からあっけらかんとした声が掛かる。開け放した戸口から顔を覗かせているのは、たった今目の前で消えた勘右衛門だ。
 やにわに兵助が八左ヱ門に掴みかかった。
「なに、ケンカしてんの? よしなよ。何があったか知らないけど。あれ、なんで日誌がここにあるんだ?」
 兵助は両手で八左ヱ門の頬を引き絞ってねじり上げ、黒板消しを投げ出した八左ヱ門も手を伸ばして、兵助の頬を餅か何かのようにぐいぐい引き伸ばす。
 驚いた勘右衛門が間に割って入るその騒ぎに気付いて、掃除当番たちも止めに掛かる。

 窓の下ではちょうど、『雷蔵かつ三郎』が話を終えたところだ。
 さっきからいやに騒がしい教室の窓を見上げた『雷蔵かつ三郎』は、手びさしで眩しい日差しを遮りつつ、地面に落ちる自分の影を踏んでそこに立っている。