三、
消灯時間を少し過ぎた頃、訪いの声もなく部屋の戸が開いた。
部屋の隅で焚く蚊遣火の煙がついと流れ、火を灯した文机に向かっていた仙蔵は鋭く戸口へ視線を飛ばす。が、月光を背負ってそこに立っているのが同室の友人だと気付くと、「早く閉めろ。虫が入る」と言って、すぐに読みかけの本に戻った。
きちっと戸を閉じた文次郎が無言で部屋へ入って来る。
まだ夜は浅いが、夜間訓練は切り上げたらしい。立ったまま頭巾と手甲を外し、腰紐を解いて上衣をくつろげる間も口をきかず、その代わりにしきりと小さな溜息をついている。
「疲れたのか」
仙蔵が振り返ってからかうと、髪から元結の紐を引き抜いていた文次郎は、何か言い返したそうな頷きたそうな曖昧な表情で手を止めた。
「そうじゃないが、どうも気が乗らん」
「珍しいな。まさかお前が夏バテでもあるまいし」
「全くだ。俺としたことが」
自分で言っていれば世話はない。よもや急に体調を崩したのかと針の先ほどには心配した仙蔵は、肩をすくめて再び本に目を落とす。
その背後で床に座り、無闇に髪を掻き回していた文次郎は、壁際に並ぶ生首フィギュアに目を留めて眉をしかめた。
「それ、後ろを向かせるか、布でも掛けておいて貰えねえかな」
「そんなに繊細だったかな」
「部屋に帰って来て生首の群れに出迎えられるのは気分の良いもんじゃねえぞ。大体、それは委員会の備品だろう。倉庫にでもしまっておけよ」
不満そうに文次郎が言う。なんとなく駄々をこねるような口調になっているのは、自室に委員会の備品を置くことがあるのはお互い様だと暗黙のうちに承知しているからだろうが、今日に限っては文句を言いたい気分であるらしい。
もっとも、会計委員の備品は文次郎の文机に積んだ帳簿や算盤くらいのものだ。寝床の周りに生首がごろごろしている状況があまり有難くないのは確かではある。理は相手にあるような気がしたが、言われっ放しは少し癪なので、仙蔵はくるりと向き直って反論にもならない反論をした。
「は組の部屋なんて、骸骨やイモリの黒焼きやアヒルの生首が転がっているぞ」
「あそこは伏魔殿だ。部屋じゃねえ」
にべもなく文次郎が切り捨てる。
「それはともかく、ここにあるのは修繕の途中なんだ。勘弁しろ」
すまなそうな声を作って仙蔵がそう取り成しても、文次郎はしかめ面で生首フィギュアを眺めていたが、ふと手を上げるとさするように自分の首筋を撫でた。
「女武者とか稚児髷の首まであんのかよ。趣味悪ぃな。あー、鳥肌立ってきた」
「首実検の場で首の選り好みはできないだろう」
そう言いながら、文次郎が渋面を向けている場所に、仙蔵はそろりと目をやった。
そこは壁だ。何もない。少なくとも、仙蔵の目には映らない。
顔を振り向けて文次郎を見る。手櫛で無造作に髪を梳き流している、その頭や肩の後ろ辺りの暗がりが妙にもやもやと濃く見えるのは、蚊遣火の煙に揺らめく灯火が映えるせいだろうか。
そこに目を据えたまま、仙蔵が慎重に口を開く。
「つかれたのか」
「疲れちゃいねえっての」
「いや、そうではなくて」
言いかけて、仙蔵は唐突に立ち上がった。弾みで文机から落ちた本には目もくれず、文箱を開けて桃葉を掴み出すとそれを蚊遣火の器に放り込み、部屋の戸を勢い良く開け放つ。
清かな月の光がさっと部屋の中へ差し込む。
その光に照らされて眩しそうに目を細めた文次郎が、訝しげな顔をした。
「虫が入るぞ。――おい、どこか行くのか」
「台所で塩を貰って来る」
「あ? 塩?」
「お前は明日一番で宗成寺か金楽寺に行け。和尚様によく見て頂いて来い。それから、秘蔵の逸品だがこれをやる」
てきぱきと言って文次郎の手に桃の練香を押し付け、仙蔵は足早に部屋を出て行く。呆気にとられてそれを見送った文次郎は、しばらく経って我に返ると、手の中の香を転がして首を傾げた。
「……忍者が匂いをつけてどうしろってんだ」
呟いてみるが、分からない。さて置き、まずは汗を流して来ようと、灯火を吹き消し手拭いと着替えを掴んで部屋を後にする。
無人になった部屋の中で蚊遣火と一緒に桃葉が燻っている。
やがて、並べられていた首がひとつ、突かれたようにころりと転げた。