二十三、



 領地境の大寺にてタソガレドキ、カワタレドキの密談あり。
 両陣、意見の相違から口諍いを発す。ついには供廻り諸共に斬り合いに及ぶ。御殿、黄昏甚兵衛、奮戦むなしく斃れたる由。
 カワタレドキ城主香波垂時衛門、気勢に乗じ軍をどよもし、今まさにタソガレドキ領へ侵攻しあり。
 徒歩騎乗の別なく、長柄、鉄砲、大筒、その他各々存分に敷き、旌旗翩翻三百余り、押し出す有様は雲霞の如し。


 物見櫓の上で高坂の報告を聞いた山本は、黙って眉根を寄せると、狭間の覆いを持ち上げて眼下の城門を見下ろした。
 跳ね橋を上げ、閉ざしたたままの門の前には、家財道具の一切合切を引っ担いだ城下の領民が堀の際までみっしりとひしめいている。身分の上下も老若男女もなく雑多に入り混じった人々は誰もが引きつったような顔つきで、拳を振り上げ足を踏み鳴らし、橋を下ろせ開門しろと口々に喚き立てる。
「早く城へ入れてくれ! カワタレドキの母衣衆が川を渡るのを見た者がいるんだ!」
「川辺の村はもう大筒に囲まれてしもうたと」
「子供が山で銃声を聞いたと言っているのよ!」
 叫び声の合間に混じる切迫した訴えに、山本の眉間の皺はますます深くなる。
 殿は朝から出掛けていて城中にいない。同行したのはごく少人数で、その目的や行先は、少なくとも忍者隊には知らされていない。
 が、「ちょっと悪いことをして来るよ」と言い残して、組頭も昨日から姿を消している。
「組頭は殿のお側にいる」
 ならば向かった先がどこであろうと、殿が横死するなど有り得ない。
 呟く山本に向かって小さく顎を引いた高坂は、ひどく不味いものを頬張ったような口調で付け加えた。
「……それに、忍術学園の介入で会談が壊れてから、カワタレドキとは相互に不干渉です。やり合う理由がありません」
 敵でもないが味方でもなく、相手が何をしてもそれが自分たちの不利益にならない限りは、互いに見ざる聞かざるを決め込んでいるのが現状だ。その暗黙の了解が有効である以上、城主同士がこっそり話し合いをする必要はないし、ましてや無用の戦を仕掛ける必要もない。
 しかし、午前(ひるまえ)からちらほらと城の周辺に集まって来た「避難民」の数は時を追うごとに膨れ上がり、人々の間に流れる噂の内容は新しい一団が到着するたびにより具体的に、より尤もらしくなっていく。

 曰く、殿は三人まで斬り捨てたのち、槍衾にかかって突き倒された。
 曰く、香波垂時衛門の甥にあたる人物が殿の首級をあげた。
 曰く、カワタレドキ城に多額の寄付を約束された寺の住職が、タソガレドキ側の供回り衆を予め会談場所から遠ざけていた。
 曰く、領地が接する場所にあった村は夜明け前に乱取りに遭い、人も家屋も何もかも焼き払われてしまった。
 曰く、町へ出掛ける途中の花売り娘がカワタレドキ兵に連れ去られ、行方知れずになっている。
 曰く、曰く。曰く。曰く。

 最初は不埒な風聞だと怒ったり笑ったりしていた城内までもが漏れ聞こえてくる噂に煽られるように次第に浮き足立ち、午の刻をやや下った現在、表向きから奥向きまで程度の差こそあれさわさわと波立っている。重職の臣下たちは険しい顔つきで足早に往来しては辻々で額を寄せて囁き合い、短兵急な城兵たちに至っては、虎落に据えるのだと言って城庭の竹を刈り集め、先端を削り出して火で炙り竹槍を作り始めた者までいる。
 それを横目に、忍者隊は組頭不在のまま冷静を保っている。
 留守代の山本がまったく動揺を見せないのと、隅々まで張り巡らせた情報網から急ぎ上げさせた報告と方々へ実情見聞に放った偵察が持ち帰る情報とで、ある程度正確な状況を把握しているため――ばかりではない。

 組頭が殿と共にいるという一点を以て、忍者隊の誰もがはなから噂を信じていないからだ。

「本当に大軍を動かしていれば、いくら目立たぬよう気を付けても必ず兆候が現れる筈です。"見た"と聞いた、"聞いた"と言っていたという伝聞ばかり山程あって、なのに雑兵のひとりさえ実際には見当たらない」
 これは流言です、と高坂は言い切る。
 いくら探しても噂を裏付けるような事実が存在しない以上、すべてが虚事と見て間違いない。愁眉を開かないまま山本も頷く。蜂の巣をつついた騒ぎの門前に目をやり、苦い口調で言う。
「だが、彼らはもとより自分の耳目に拠って動いている訳ではないからな。殿の御姿なしに根も葉もない流言だと納得させるのは骨がいる」
「かと言って、小頭があの場へ説得に出て行く訳にもいきますまい。御家老なりにお出まし頂けば――」
「噂が九分九厘嘘であろうことはお伝えしてある。が、そう言い張るなら嘘だという証左を持って来い、との仰せだ」
「無いものが無いことを見せろ、と言う訳ですか」
 頭巾の隙間から覗く高坂の目に軽い侮蔑の色が浮かぶ。目顔でそれをたしなめ、山本は指先でとんとんと狭間の羽目板を叩いた。
「城の存亡を左右する重臣と我々忍びとでは、ものの考え方が違うのだろう。解せない話なのも確かだ」
 噂の火種がいつどこで撒かれたのかは、集めた情報を総合し分析してほぼ絞られている。
 夜が明けて間もない頃、畑仕事や家畜の世話のためにたまたま外にいた領民が、ふらりと現れた旅の行者に「黄昏甚兵衛どのが斬死なされたのをご存知か」と尋ねられて仰天し、泡を食って近所へ触れ回った――と言うのが、どうやら事の発端らしい。

 ただ奇妙なことに、城を中心にして北西・南西・南南東に位置する互いに遠く離れた場所で、ほとんど同じ時間帯に同じ風体の行者が出現しているのだ。

 常識で考えれば、不穏な話を持ち込んだ行者は三人いたと考えるのが妥当だ。しかし、その足取りは未だ一人分さえ掴めない。まるで空中から突如湧いて出て、そのまま霧散して消えてしまったかのように、だ。
 その一方、あとに残されたほんの一言の質問は人から人へ伝播するうちに肉付けされ、いつの間にか真実として流布して、民衆を野火に追われる獣のように逃げ走らせている。
 実際、行者が現れた地点より離れた場所から馳せつける者ほど詳細だが根拠のない情報を数多く持っていて、慌てようや怯えぶりもより大きい。
 半信半疑で城の様子を窺いに来ていた者はそれを見て不安になる。そして、確からしい情報を求め駆け回って不確かな伝聞を山と掴み、ますます強い不安を抱く。あとからやって来た「避難民」はうろたえる先覚の姿に戦き、状況は情報通りに悪化していることを確信する――そんな悪循環が見事に成立してしまっている。
 戦を仕掛けようという場合、相手領内でわざと騒動を起こしそこに付け入るのは定石のひとつだ。それを危惧してタソガレドキ城周辺の城には勿論目を光らせているが、今のところどこにも怪しい動きはない。

 ならば、誰が、何の為に?

 それが皆目分からない。
 殺気立った人々は開かない城門に向かって足元の飛礫を投げ始め、前へ出ようとする人波とそれに押しやられ堀へ転げ落ちそうになった一団との間では、掴み合いの喧嘩が起きている。所々から散発的に上がる子供の泣き声や女の悲鳴、荒々しい男の罵声が次々と連鎖して、混乱が増幅し輻輳していく。
 あまりに異様な雰囲気だ。

 この事態を、面白がって眺めている誰かがいるとしたら?

 不意に浮かんだ想像に息苦しさを覚えた山本は、狭間から目を逸らし、片手を襟元に差し入れて押し広げた。

 これだけの騒擾を起こしたことに特に意味はなくて、ただ遠くから見て笑いたいだけだとしたら。

「小頭、」
 きつく目を閉じる山本をじっと見ていた高坂がそう言いかけた時、城庭のどこかでパンと乾いた音が鳴った。
 火入れをしている竹槍が爆ぜた音だ。
 同時に門前でひときわ高い絶叫が響き渡った。鉄砲だ、撃たれた、と怒号が飛び交う。最前列が一斉に踵を返して逃げようとするが、密集した人垣はすぐには崩れず、中程で続けざまに将棋倒しが起きる。我勝ちに駈け出す人は地面に転がった人を落ち葉のように踏みしだいて一顧だにせず、手を貸して起き上がらせるどころか、邪魔だ退けと怒鳴りつけてゆく。
 城内から鉄砲を撃ちかけられたと早合点して張り詰めていた緊張が切れ、一気に恐慌状態へ陥ったのだ。
「何て事」
 素早く狭間を覗いた高坂が低く呻く。
 山本は高坂の後ろから手を伸ばして狭間の覆いを下ろすと、静かに首を振った。
「組頭の帰陣までに我々がしなければならないのは正確な情報の把握だ。あれを見る必要はない」
「……見なければ、無いことになるのですか」
 流言に惑わされた挙句のこの惨状もまた、見るべき現実ではないのか。
 汚いものを見た嫌悪感を顕に声を尖らせる高坂へかける言葉を探して、山本は乾いた唇をちらりと舐めた。