二十二、
ぱらりと水が落ちたと思う間もなく、叩きつけるような雨滴があっという間にやって来た。
夕方の驟り雨だ。
こうなっては一間先さえまともに見えない。急いで馬を牽き、街道沿いの厚く葉の茂る木の下へ雨宿りする。
「凄い降り様ですね」
清八は天から垂れる白い緞帳のような雨を見上げ、しきりに鼻を鳴らす異界妖号の首を軽く叩いた。
「なに、すぐに止むさ」
濡れた着物の裾を絞りつつ親方が気楽に言う。愛馬の能一傑号も、鷹揚に構える主に倣うように、落ち着き払った様子で辺りを睥睨している。
町へ荷を運んだ帰路で、馬の背が空いているのは幸いだった。米や炭を濡らしてしまっては後の始末が大変だ。もっとも雨が過ぎてから村へ戻れば、ぬかるんだ道中で泥だらけになった馬の手入れが待っていて、それはそれで大仕事なのだが。
異界妖号が鼻面でぐいと清八の腕を押す。
「なんだよ。面倒だ、なんて思ってないよ」
清八は相棒の長い顎の下をくすぐり、そう言って宥める。
馬借が商売の生命線である馬を大事に扱うのは勿論だが、ほとんど寝食を共にするような生活をしていれば、馬の方からも人間にある種の信頼を寄せて来るようになる。いくら役に立とうと所詮は畜生、それと心が通じたなどと思い込むのは愚かだと誰かが清八に向かって賢しらな物言いをしたら、主と自分の矜持のために異界妖号はすぐさまその誰かに噛み付くだろう。――と思う。
それくらいは、してくれるよな?
前脚の蹄で土を掻き、思い出したように尾を振り立てる異界妖号の鬣(たてがみ)を何気なく手櫛で梳く。
その指がかさかさしたものに触れ、ひょいと馬の首筋を覗いてみた清八は思わず息を止めた。
草色の虫が二匹、鬣に止まっているように見えた。
馬と一緒に雨宿りするかまきり――ではなかった。
三角の小さな頭を持つ節くれだった体には、大鎌と二対の脚ではなく、人間に似た細長い手足が一対ずつ付いている。その手足を蠢かせて鬣の下に這い込み、隙間から顔を出してはまた引っ込んでみたり、鬣にぶら下がって蓑虫のように揺れてみたり、一時も止まらない。
背中で動くものを嫌がって首をねじろうとする異界妖号の頭が清八の肩にぶつかり、その衝撃で清八は我に返った。
「おやか、」
慌てて呼ぼうとした舌先で、声が蒸発した。
悠然と佇む能一傑号の首にも、数匹――数人?――のかまきりもどきがいた。河原の土手で遊ぶ子供のように何度も長い首を上っては滑り降り、何かの拍子に鬣に絡まると大騒ぎでそこから抜け出して、また上り滑りの列に戻る。
それが間違いなく目に入る位置にいる親方は、素知らぬ顔でしわの寄った着物の裾をつまんで引っ張っている。
「親方」
「うん?」
やっとのことで清八が声を出すと、親方は平然と振り返った。清八の顔と、能一傑号と異界妖号を見て、日に焼けた髭面にあっけらかんとした笑みを浮かべる。
「俺の馬が騒がない。悪いものじゃねえよ」
そうだとも、と言いたげに能一傑号が頭をもたげ、小さくいななく。うるさいけれど害はないんだ、放っとけ放っとけ。
異界妖号が不満気にぶるんと鳴く。そうは言っても鬱陶しい、と訴えるように。
清八が狐につままれたような気分で目をこすり、もう一度馬の首を見た瞬間、頭上の梢を通り抜けた雨粒がぱたぱたっと鬣の上に落ちた。
その途端、かまきりもどきは跡形もなく逃げ散った。
ひとつ瞬きした清八は、その時になって初めて、辺りに薄闇が迫りつつあるのに気が付いた。
驟り雨は、まだ止む気配はない。