二十一、



 最後尾の生徒が学園の門をくぐって程なく、午後の終礼の鐘が鳴った。
「時間ぴったりでしたな、い組は」
「そうですね」
 裏々山の地図を広げ、縦走訓練で踏破したルートを指で追いながらほくそ笑む安藤に、厚着はあまり気のない返事をした。
 は組は昨日の授業で先に同じルートを歩いている。
 が、帰着予定時刻は遅れに遅れた。万が一の事態に備えて教職員と一部の上級生に待機命令が出たほどだったが、伝令として先に戻って来た乱太郎が「山菜採りと栗拾いについ熱中してコースを逸れていくうち、山賊をやめたい山賊に出くわしてしまったので社会復帰の手伝いをしていた」と報告したので、緊張は一瞬でしらけた。

 またかよ!

 それが午後の予定を全て切り上げ学園内に留め置かれた者の総意だったことは否定しないが、それにひきかえ計画通り進行した一年い組は実に優秀で――と鼻の穴を膨らませるのは、厚着には賛成しがたい。い組の生徒たちは比較対象がないと持ち上げられないような出来ではあるまいに。
 もう一度口を開いたら自慢や嫌味を喋り止めなそうな安藤の機先を制し、厚着はさっと庵の方角を指した。
「学園長への完了報告は私がして来ます。安藤先生は、子供たちにこの後の指示を」
「え、――あ、そうですか。ではお願いします」
 出掛けたくしゃみが寸前で引っ込んでしまったような顔をした安藤は辺りを見回して、学級委員長の彦四郎を呼んだ。
 訓練のために借りだした道具がきちんと戻って来たか数えていた彦四郎が小走りに駆け寄って来る。
「参りました」
「後片付けはみんなに任せて、厚着先生と一緒に学園長に訓練の内容をお話ししてきなさい」
「はい」
 彦四郎は素早く頷き、道具の所へ駆け戻ってそこにいた左吉たちに用具倉庫へ返しておくよう頼むと、再び担任のもとへ走った。半日いっぱい山中を歩き回ってうっすら汚れた顔をきりりと上げて、言う。
「お待たせ致しました」
「では行こう。しかし、その前にまず、」
 生真面目な表情で次の言葉を待ち構える彦四郎に、厚着は小さく破顔する。
「井戸で顔を洗おうか」


 庵へ向かう途中、山田が五年生と立ち話をしているのを見かけた。
 は組と同じ訓練から戻ったところだと聞いて山田は苦笑いをしたが、一緒にいた五年生も事情は分かっているらしく、「もうお戻りですか」「いやいやそちらこそ」と教師同士でやり取りする間中、黙っていたずらっぽく微笑んでいた。
 その二人と別れて歩き出してから、厚着は首をひねった。
「今のは、不破と鉢屋のどっちだろうな」
「鉢屋先輩です」
 即座に彦四郎が答える。
 ここがこうだったからあれは鉢屋だといちいち説明しないあたりが、より確信的だ。委員会で顔を合わせる機会が多いとは言え、見た目以外で判断できるということか? と厚着が再度首をひねろうとした時、彦四郎がこくんと首をかしげて、厚着を見上げた。
「五年生も午後は裏々山で演習をしていたんですよね?」
「確か、そうだったな。監督は山田先生だったか」
「ああ、だから、珍しい組み合わせ――」
 彦四郎がくすっと笑った。厚着が眉を上げると、彦四郎は笑いながらすみませんと謝った。
「山の中で、着物や身体つきは若い女の人なのに顔はヒゲの濃いおじさんの変装をしてる人がぶらぶら歩いてて、鉢屋先輩? って声をかけたら驚いて逃げちゃったんです。やっぱり先輩だったんだ」
「何をやっとるんだあいつは……しかし、わざわざ裏々山で変姿術の演習というのも変わった趣向だな」
「先生も五年生を見かけたんですか?」
「いや。伝子さんらしい姿を、遠目にな」
 格子模様の小袖を着た娘がいると思いきや、ひょいと振り返った厳つい顔のヒゲ剃り跡が青々と目に染みて、思わず回れ右をしてしまった。厚着がそう話すと彦四郎は珍しく声を上げて笑い、それから少し不思議そうな顔をした。
「鉢屋先輩も赤い格子の着物でした。流行ってるのかな」
「作法か用具でまとめて購入した学園の備品なんだろう」
 そんなことを話しながら庵の前まで来ると、植木鉢の手入れをしていた学園長は、二人を見てしゃりんしゃりんと鋏を鳴らした。
「何じゃ。楽しそうだの」
「縦走訓練の完了報告に参りました」
「おお、そうか。ちょっと手を洗ってくるから、中で待っていなさい」
 はいと返事をして庵に上がると、学園長が座る上座の畳の所には、先に山田が提出したらしい五年生の演習の報告書が無造作に置かれていた。
 書類一枚でも労力をかけて作成しているんだから、もう少し丁寧に扱ってほしいものだ――などと思いながら厚着が何気なくそれを見ていると、座りかけた彦四郎が不意に立って行って、その報告書を手に取った。
「こら、生徒が勝手に読んではいかんぞ」
「先生。これ、見て下さい」
 慌てて腰を浮かせた厚着が報告書を取り上げようとすると、彦四郎は題字が書かれた面を厚着に向けて、指さした。
 そこには山田の字で「山中陣地構築及敵陣発破演習之事」とある。

 野外での陣地づくりやその発破のために女装をする必要は、考えるまでもなく、ない。
 それならあの、おっさん顔の若い娘――あるいは若い娘の身体を持つおっさんは、誰で、何だったんだ?

 沈黙が落ちる。
 そこへ、ガラッと障子戸を開けて学園長が入って来た。手を洗うついでに食堂で調達してきたのか、饅頭を盛った菓子鉢を抱えて意気揚々としていたが、何やら重い雰囲気で黙り込んでいる二人を見て急いで顔を引き締め定位置へ着く。
「待たせてすまんの。いやあ、途中で安藤先生に会ったら、自慢と嫌味をたっぷり頂戴してしまってなあ。訓練で疲れておるのだろ? まずは甘いものでも食べなさい」
 口早に言い訳しつつ、ささ遠慮無く、と菓子鉢を下座へ滑らせる。
 まだほんのりと湯気の立っているいかにも美味しそうな饅頭に指一本動かさず、ますます難しい顔をして黙りこくるい組の二人に、学園長はつい「これがは組なら簡単なのに」と考えた。