十九、



 学園長から貰った餅菓子の包み片手に、山田は頭を悩ませている。
 元は京で店を出していたと言う触れ込みの振売りが学園の近くまで売りに来る餅は、最近の学園長のお気に入りだった。
 また田楽豆腐屋の時みたいなことになるのではないでしょうね、と皆に危ぶまれていたのが相当不満だったらしい。書類の確認のために庵へ行ったついでにひとつご相伴にあずかり、その絶妙な甘さと柔らかさに山田が感心すると、気を良くした学園長は「は組担任の慰労だ」と勿体振りながらもいくつか分けてくれた。
 午後から出張で学園に戻るのは明日の夜になる、と土井から聞いていたのを思い出したのは、自室に戻ってからだった。
「どうしたもんかな」
 大まかに紅葉を象った餅は大きさもそれに近いが、二人分となると包みはずっしりと思い。
 丸一日も放っておいたらかちこちに固くなってしまって勿体ない。かと言って、一人で食べては腹にもたれる。生徒にそっくりあげてしまうのは学園長に悪いし、は組全員に行き渡るほどの数もない。貰える子と貰えない子が出てしまうのはよろしくない。
「どうしたもんかな」
 もう一度呟いて、山田はとりあえず文机の前に腰を下ろした。
 机上に置いた包みを眺めているうち、隙間からこっそり入って来た猫がすぐ横を通り過ぎたような微かな空気の動きを感じて、何気なくその出どころを目で探す。
 隣室との間の襖が三寸ほど開いている。
 土井が出掛けに用事でもあって山田の部屋を覗いたのだろう。閉めそこなうのはらしくないが、余程急いでいたのか。そんなことを考えながら襖の所へ立って行き、手を掛けて、引く。
 ぱしんと軽い音を立てて襖が閉じた。


 餅菓子は結局、その後すぐ実技訓練の内容について相談に訪れた厚木と日向にふるまって片付いた。
 相談自体はなんという事もなく済み、安藤のおやじギャグは本当のところ同年代でも辟易するとか、忍たま長屋の廊下を這っていたナメクジを踏んで見回りの斜堂が卒倒したとか、用具委員会から体育委員会へ今月九回目の厳重抗議が来たとか、他愛もないことを駄弁ってから二人が引き上げた頃には子の刻(午前0時)をいくらか過ぎていた。
「喜三太に注意せにゃいかんなあ……」
 独り言を言って、ごきごきと首を回す。
 提出期限が近い書類の作成は済んでいるし、幸い今のところ他に急ぎの仕事もない。ひとつ伸びをした山田が、今夜は早めに床(とこ)を取ろうと立ち上がった刹那、柔らかいものを踏みつけた。
「ん?」
 ナメクジ、と咄嗟に思った。それとも、取りこぼした餅が落ちていたか。
 そろりと足を持ち上げてその裏を見る。が、何もくっついてはいないし、触れてみても粘る感触もない。
 床に目を向けた山田は、皿に灯した火のぼんやりした明かりと、それが作る自分の影との間に何かがあるのに気が付いた。

 ぷにゃっとして柔らかそうな、紅葉に似た白いもの。
 それは餅ではなく、赤ん坊の手だった。
 手のひらを上に向けて指先を軽く握った小さな手が、板張りの床(ゆか)の上に少し距離をおいてふたつ、ぽつん、ぽつんと落ちている。

 今にも動きだしそうに精巧な手は、山田の鋭い視線に射すくめられたように、じっと動かない。
 臆病な生き物ができるだけ身を縮めて危険をやり過ごそうとしている。そんな気配が感じられて、山田はふと申し訳ないような気分になった。
「すまんなあ。痛くなかったか」
 声をかけられて、ぴくりと手が動いた、ように見えた。灯火が揺れて影が動き、そう錯覚しただけにも思えた。
「餅は無くなってしまったぞ。もう少し早く出てくれば、分けてやれたんだが」

 そう言いながら文机の上の餅を包んでいた紙をちらりと見て、もう一度下を見た時には、紅葉の手は消え失せている。

「……ふむ」
 腕を組み、山田は唸った。
 自分の視覚や知覚は信用できる自信がある。と言うことは、今のは幻ではない。実際に赤子の――赤子の、とは限らないが、少なくとも見た目はそれらしい――手が転がっていて、それをうっかり踏んでしまったのだ。
 生年四十六にして初の経験である。
 が、二度目があるかどうかは分からないし、分かったところで何をどうするという事もない。せいぜい足蹴にしないよう気をつけるくらいだ。
「まあ何にしても、もう済んだことだ」
 山田は呟き、ついでに込み上げた欠伸を噛み殺し、布団を引っ張り出そうと足元に注意しながら押入れに近付いた。


 翌日出張から戻った土井は、山田の部屋で留守中の連絡事項を聞きながら、襖の前に飴が置いてあるのは何故かと尋ねてよいものかどうか迷うことになる。