十八、
嫌な夢を見た。
枕に頭を乗せたまま、兵太夫は胸の中のもやもやした余韻を反芻する。
目を覚ました瞬間、まるで熱した鉄に落とした水滴のように、「嫌」という感覚だけ残して夢の内容はすべて消し飛んでしまった。
「……気持ち悪いな」
布団の上に起き上がり、手のひらで顔を擦って呟く。うだるような夏の暑さも立秋を過ぎてようやく峠を越え、昨晩など上掛けがないと肌寒いくらいだったのに、顔と言わず身体と言わず汗がまとわりついている。
顔を洗いたい。
隣の布団で平穏にくうくう眠っている三治郎を起こさないように、兵太夫はそっと部屋を抜け出した。
日の出にはまだ少し早い。薄く引き伸ばされた夜が残る青みがかった空は、それでも今日の晴天を示唆するようにきりっと澄んでいる。それを見て何となく爽快な気分になった兵太夫は、爪先に草鞋を引っかけてぺたぺたと井戸へ向かった。
昨日の授業はクラスを三つに分けて裏々山で班対抗クロスカントリーをやった。走って登って跳んで泳いで、打って投げて斬って着火して、その合間に暗号を解いてチェックポイントを通過して、ちょっと内容を詰め込み過ぎじゃないのとぶうぶう文句を言う元気すら最後には無くなって、みんなでボロ屑みたいになって学園に帰って来たのが亥の刻(午後十時)頃だ。簡単な夜食をかき込むのもそこそこに、ほとんど気絶するように眠ってしまった。
きっと、くたびれ過ぎていたんだろう。だから変な夢を見て、その夢をあっという間に忘れちゃったんだ。
「あれ、兵太夫。おはよう」
「よー。早いな」
「あれ? なんでいるの?」
井戸端へやって来た兵太夫を、意外にも虎若と団蔵が出迎えた。団蔵は井戸の上の滑車につり下げた縄を握り、虎若は水を汲み上げたばかりらしい桶を抱えている。
「朝練前にトレーニングをしてた、って訳じゃなさそうだね」
二人とも寝間着姿のままで髪も結っていない。兵太夫が言うと、団蔵はきまり悪そうに充血した目を瞬いた。
「それがさ。夢の中でびっくりしたら、本当に目が覚めちゃったんだ。虎若もね」
「うん。二度寝したら寝過ごしそうだし、なんだか顔を洗いたくなって」
「ほとんど一緒に飛び起きたよなー。同じ夢を見てたのかな?」
「手をつないで寝てたの?」
そんな訳ないじゃん、と虎若が言い、タライにあけた水をすくって勢い良く顔にかける。きらきらと飛び散る水飛沫が涼しげだ。
兵太夫は団蔵から釣瓶の縄を受け取り、桶をぽちゃんと井戸の中へ落とした。
「兵太夫は、朝刊配達でもするの」
「きり丸じゃないんだから。僕も変な夢を見て起きちゃったんだ」
「三人ともか。それなら絶対、クロスカントリーのせいだな。疲れ過ぎて眠りが浅いんだよ」
そう言って団蔵もタライの中に手を浸し、その快い冷たさに小声で歓声を上げた。
三人部屋の乱太郎たちの他は部屋割りごとに四人組を作り、兵太夫・三治郎・団蔵・虎若が同じ班になった。第七チェックポイントの「大きな川の傍の、古い橋の跡」にあるはずの暗号が見つからず、川端のそこら中の地面を手当たり次第に掘り返したり、通りがかりのおじいさんにそれを見られてこの罰当たりめとこっぴどく叱られたりした分、他の二班より消耗しているはずだ。三治郎は熟睡しているが。
「ところで、どんな夢だった?」
桶に水が入って重くなった縄を掴み直し、何の気なしに兵太夫が尋ねると、団蔵と虎若は揃って首を横に振った。
「目をあけた途端に忘れちゃった。何かを見て驚いたのは覚えてるんだけど。ただ、嬉しい"びっくり"じゃなかったのは確かだな」
「同じく。僕は驚いたと言うより、ぞっとしたみたい。起きたら鳥肌が立ってたし」
「へえ、変なの。僕も、気味が悪い感じが頭に残ってるだけで、覚えてないんだ。――やけに重いな」
釣瓶の縄が手の中で滑って、なかなか引き上げられない。桶いっぱいの水を汲むぐらい普段はなんでもないのに。やっぱり、疲れているんだ。
「手伝うよ」
虎若が一緒に縄を掴み、二人がかりで引く。それでも縄はじりじりと動くだけで、重過ぎると抗議するように、滑車が癇に障る音を立てて軋む。
「おかしいな。中で何かに引っ掛かってるんじゃないか?」
「引っ掛かるような物なんてあったかなあ。井戸に落ちて浮いてたものを一緒にすくったとか……」
首をひねる兵太夫の頭に、突然奇妙な光景が浮かんだ。
ドキッとして思わず身じろぐと、団蔵と虎若も同時に頬を強張らせた。三人の視線が蓋に隠れて見えない井戸の中へ注がれる。
「少し思い出したんだけど……、ざんばらな長い髪の毛、夢で見なかった?」
虎若がぼそっと言う。兵太夫と団蔵が頷き、次に兵太夫が口を開く。
「それと、白装束」
うんうん、と他の二人が首を縦に振る。ごくりと喉を鳴らした団蔵が、思い切ったように言う。
「あとは――こっちに向けて差し出した、泥だらけの細い腕?」
橋の跡の周囲を掘っているのを見て、おじいさんは「罰当たり」と怒った。
大きな川に橋を架けるのは現在の技術でも簡単ではない。今は朽ち果てて無くなっているが、昔の人はそれでも橋を作った。技術が及ばない分はまじないで補い、工事の成功と安全を祈願した、と授業で習った。祠を作って拝んだり、神様にお祈りをしたり、米や作物の供物を捧げたり、――工事現場に人柱を埋めたり。
兵太夫と虎若の握る縄が、ぐいっと引っ張られた。
それは意思のある動きに見えた。
まるで早く引き上げろと催促するように井戸の中で縄を引いたのは、水の満ちた桶か? それとも、暗く冷たい水の底から出たいと切望する"なにか"?
「何も驚くことなんてないさ。たぶん、でっかいガマガエルでもすくっちゃったんだ。蓋を開けてみようよ」
声を励まして兵太夫が言う。蓋に手を付いていた団蔵はパッとそこを飛び離れた。
「やだやだ! だって、居たら、どうするんだよ!」
「いない! カエルに決まってる! 中を見れば分かる!」
「いくらでかくたって、カエルはこんなに重くないよ!」
縄を手放す機会を逃した虎若が悲鳴のような声を上げる。じたばたする足がタライの端を踏み付け、傾いたタライから中の水が一気に零れ出す。その水たまりを跳ね上げて三人が言い合う声が早朝の静けさをつんざいて響く。
「――ねえ、静かにしなよ。みんなまだ寝てるんだよ」
穏やかにたしなめる声が横から掛かった。
振り向いてみれば、いつの間にそこへ来たのか、寝ぼけ眼の三次郎が目をこすりながら立っている。
その瞬間、何の前触れもなく縄にかかっていた重さが消えた。
兵太夫と虎若はわっと声を上げてつんのめる。
「何があったの?」
ちまちまと瞬きした三治郎が不思議そうに三人を見回す。
「三治郎は、夢は見なかった?」
「え、夢? クロスカントリーでくたびれちゃってぐっすり寝てたから、見てないなあ」
腹這いにこけたまま虎若が尋ねると三治郎は首を横に振り、みんなの声で目が覚めるまではねー、とチクリと付け加える。言葉通り眠そうではあるが、その表情に陰りはない。
「……さすが、山伏の子」
感に堪えない様子で団蔵が呟き、単に図太いんだったりしてと兵太夫が混ぜ返そうとした時、学園のどこかで一番鶏が高らかに鳴いた。