十七、
新しく買い入れた火薬が届いたと連絡を受けて焔硝蔵へ向かう途中、花壇の前に斜堂が佇んでいるのを見かけた。
その時は大して気に留めることなく見過ごしたが、確認と点検を終えて長屋へ戻ろうとした半刻(一時間)後にも、斜堂はまだそこにいた。それも先程のようにただ立っているのではなく、地面に膝を突き鼻の先が土に触れそうなほど姿勢を低くして屈み込んでいるので、仰天した土井は思わず駆け寄った。
「どうしました。気分でも悪いんですか」
「はい? あ、私ですか?」
驚いた様子もなく顔を上げた斜堂は、土井を見ると少し首を傾け、緩慢な動作で上体を起こした。
白い顔で冷汗をかいてもいないし、赤い顔で汗ひとつ流さずむくんだようになってもいない。いつもと変わらず顔色は青い。
「私は元気ですよ」
腹に力の入らない声でふやふやと言う。これも普段通りだ。肩透かしをくった土井が目をぱちくりさせる前で斜堂はゆらりと右手を持ち上げ、花壇を指した。
「ここに花が咲いているんです」
「……でしょうね」
盛夏の日差しをたっぷり浴び、連日の夕立でしっかり潤った花壇は、色も形も大きさもとりどりの草花が所狭しと元気に育っている。ただ、花壇の管轄は何委員会だったか、手入れを怠けている訳ではないのだろうが、女郎花や葛の花を覆い隠す勢いで雑草がはびこっているのはいただけない。
それを指摘したいのかと土井は思ったが、斜堂の表情を見るとそうでもないらしい。
「こっちからあっちへ、ウズラの親子が通り抜けたんですが、」
何かを恐れているような、そのくせ、ちょっとしたきっかけで今にも吹き出しそうな様子で二つの草むらを順に指さして、斜堂は瞬きした。
思わせぶりな間をおいてぽつりと言う。
「しばらくしたら、あっちからこっちへ、戻って行きました」
「はあ。それを観察していらした?」
生物委員会が飼育しているウズラ一家の脱走を許したという話は今のところ聞いていない。学園の中に野生のウズラがいてもおかしい事はないし、親ウズラの後ろを子ウズラがよちよちとついて歩く姿は愛らしい。生き物の観察は度を越した潔癖症の斜堂にはそぐわない気はするが、たまたま見かけた微笑ましい光景に目を奪われて、時を忘れることくらいあるだろう。
その時ふと、土井は斜堂が左手で何か摘んでいるのに気が付いた。
「花壇を見ていたのです」
この辺を、と斜堂は直径一尺ほどの範囲をくるりと示し、左手に持っていたものをひょいと土井に差し出す。反射的に受け取った土井は、手のひらに載せられた濃い黄色の可憐な五弁花を目の高さに掲げてまじまじと見詰めた。
「方喰ですか。まだ咲いているんですね」
本来なら春に花をつける草だが、特に珍しいものではない。いくらか拍子抜けして土井が言うと斜堂は地面に目を落とし、謎めいたことを呟いた。
「"まだ"なのか、"もう"なのか、ね」
「は?」
「見れば分かると思いますよ」
そう言って斜堂が少し横へずれる。好奇心を衝かれた土井は失礼しますと断って場所を借り、両手を突いて伏せるようにして、さっきの斜堂を真似て地面へ顔を近付けた。
青々とした茎や葉の陰で前の季節の草が白っぽく枯れ、折り重なって半ば土に埋もれている。いずれ土に還って地味(ちみ)を肥やし、新たに育つ植物の養分になる為だ――そんな事を考えながら少し視線を上げた土井は、朽ちかけた枯草の上に伸びる数々の草花が目に入って、えっと声を上げた。
方喰をはじめ、水仙、菫、蛇いちご、なずな、蓬、片栗、土筆などなど、狭い円の中でそこだけが春であるかのように生い茂っている。
「……季節を間違えて狂い咲き、ですか?」
「そうだとしたら、この範囲だけというのは変でしょう」
それもそうだ。しかし、他にもっともらしい理由があるだろうか。
不可思議な光景に土井が見入っていると、円の外側からトカゲが一匹這い込んで来た。
「なんだこれ」
無意識に口走った土井を、斜堂が面白がるような顔で見る。
人差し指くらいの小さなトカゲは一歩ごとに体長が伸び、前後の脚が太くなり、尻尾を一振りして反対側の草むらへ消えた時には五寸ばかりにまで成長していたのだ。
「行きはヒナだったウズラの子が帰りは大人になって、親ウズラの羽は冬羽になっていたんですよねえ。どうもこの一帯だけ、時の流れが異様に速いようです」
そんな馬鹿な、と言うこともできずに絶句する土井の前で斜堂は無造作に立ち上がり、少し考えてから、膝に付いた土を撫でるようにして手で払った。その手に懐から取り出した消毒液をかけて丹念にすり込んでいるのをただ唖然として眺めていた土井は、やっとのことで基本的な疑問を口にする。
「一体、どういう理屈でそんなことが」
「知りませんよ、そんなの。あるんだから仕方ないでしょ」
にべもなく答える斜堂は既に花壇への興味を無くしたようで、明日の授業の準備をしなくちゃと言ってあっさりと立ち去る。
取り残された土井はしばらくその場へ座り込んでいたが、生徒がうっかりここへ踏み込んだらどうなるのかとちらりと考え、何はなくともまずは立入禁止の高札を建てようと決めた。