十六、
夏休みも半ばを少し過ぎた頃、金吾が熱を出した。
休みに入る直前に学園長発案によるあれやこれやがあり、結果、一年生は予定外に長期の休暇を得た。
折角の機会だから鎌倉の実家へ元気な姿を見せに行ってはどうかと勧める戸部に、金吾は断固として首を横に振った。良い機会です、休みの間みっちり稽古をつけてくださいと幼いながらに強い意志をみなぎらせる姿に折れ、日々修行に明け暮れていたのだが、
「熱意に体力が追い付いていない小さな子供なのだぞ。無理をせぬよう適度に抑えるのが師の務めだろう」
ようやっと借りられた農家の古い納屋を訪ねて来た灰洲井溝はその建物の荒れ様に驚き呆れるより先に、赤い顔で伏せっている金吾を見るや、そう戸部を叱りつけた。
持て余した腕を意味もなく組んだ戸部はうむと唸り、渋い顔をした。
大人になってから大人に叱られるのは堪える。しかも反論の余地のない正論だ。少し気が走り過ぎていると感じつつも看過していた悔悟が、今更胸に押し寄せてくる。
「風邪ではないようだが、医師には診せたのか」
糾弾しても熱が引くわけではないと、やや声を落として灰洲が尋ねる。
「学園の校医に来てもらった。この暑さと連日の稽古とで溜まった疲れが出たのだと、」
「と?」
「叱られた」
我が意を得たり、と言いたげな顔で灰洲が首肯する。
くれぐれもしっかり休養させるようにと新野からきつく釘を差されているのを、眠っているとばかり思っていた金吾も実は見ていたらしい。無理に起き出して来ようとはせず大人しくしているが、どことなく悄然として塞ぎがちになってしまった。
「どうも、体調のせいで気分がすぐれないというだけでもないようなのだが」
「自分のせいで師匠が怒られたとか、面倒をかけて申し訳ない、と思って気にしているのではないのか。いじらしいことだ」
灰洲が伴って来た玄南が暇をかこつ金吾の話し相手になっている間、二人の師匠は裏庭で顔を突き合わせてぼそぼそ喋っている。あまり見栄えのいい図ではないが、何しろ納屋は狭くて四人も入れば窮屈でたまらず、隙間だらけの壁板は内外の音を素通しにしてしまう。
戸部は潜めていた声を更に小さくして、言った。
「それもあるのだろうが――、やはり、この休みは親元へ帰らせるべきであった」
なんと言ってもまだ十歳なのだ。思いがけない病気で気が弱って、普段は表に出ない里心が大きくなり、家族が恋しくなってしまったのではないか――。
そうでなくても、あまり長いこと親と子が顔も合わせずにいるのは良くない、と思う。そう思う根拠はなんだと問われたら返答に窮するのだが。
同じように年若の弟子を預かる灰洲には、金吾を慮る戸部の心情が察せられたらしい。厳しい口調が少し和らぐ。
「結果論だろう、それは。あまり自責を抱くのもまた彼の負担になる。良いことではない」
「玄南くんが来てくれて良かった。気散じになればいいのだがな」
「ふむ。私は歓迎されていないのだな」
そんなことはないぞと取って付けたように戸部が言うと、灰洲はふふんと笑った。
「ならば座敷に通せとは言わないまでも、上がり框で白湯の一杯も所望しても良いものかな。この暑さの中を歩いて来たので喉が渇いた」
「框など上等なものはこの屋にないが、茶くらいある。軒先で一服進ぜよう」
建てつけが悪く開け閉てに手間のかかる板戸は、どうせ盗まれるほどのものもないからと、暑気と湿気対策もあって開けっ放しにしてある。
その戸口に吊り下げた帳(とばり)をくぐった戸部と灰洲は、奇妙な光景を目にして思わず立ち止まった。
「何をしているのだ?」
薄い布団の上に正座して水を張った桶に顔をつけていた金吾と、傍らに座り真面目な顔でそれを見守っていた玄南は、声を揃えた師匠たちを見上げてきょとんとした。
何を問い質されているのか分からないと言わんばかりの雰囲気にごまかされそうになるが、気を取り直して改めて見ても、この状況で整息術の訓練でもあるまいしやはり奇妙だ。熱に浮かされて妄動しているのかと危ぶんだ戸部はしかし、手拭いで顔を拭く金吾がここ数日になく落ち着いた表情をしているのに気が付いた。
玄南が興味深そうな顔で金吾の方へ身を乗り出す。
「見えた?」
「はい」
「何が見えた?」
頭の中を覗いて確かめるように、金吾の目がくるりと上を向く。
「鎌倉の家と、家の者と、みんな元気で変わりなくて。父上は組紐を編んでいました。藍色のやつ。じっと見ていたら、目が合っちゃった。びっくりしてました」
「そう」
照れくさそうにポツポツと話す金吾に、玄南は満足気に頷く。さっぱり合点がいかない戸部が灰洲を見ると、灰洲もまた曖昧な表情で戸部を見た。
「何をしたのだ、玄南? 熱があって休んでいるのに、妙なことをさせてはいかんぞ」
「南蛮人に聞いた、遠くに思う人を見る法、です。うまくいった。ね?」
灰洲にたしなめられた玄南が金吾に頷きかけ、顔を見合わせて二人でニコッとする。
「その桶の水に顔を付けて、鎌倉の風景を見たのか?」
「はい。見ました」
半信半疑どころか疑い九割で桶を指して尋ねる戸部に、金吾はきっぱりと答える。
意味のない嘘を吐く子ではない。やはり熱が上がっているのか。それにしては、顔色はだいぶ良くなったようだが。戸部は狐につままれたような気分になったものの、とにかく金吾の気鬱が晴れたらしいことには安心した。
「構いもなく失礼した。今、茶を淹れよう。私がやるから、金吾は寝ていなさい」
茶の支度に起き上がろうとした金吾は、戸部に額を押さえられてパタンと布団の上に倒れた。しばらくそのまま低い天井を見詰めていたが、ややあって一度大きく鼻をすすると、ズルズルと夜着の下に潜り込んだ。
枕辺から立ち上がった玄南が物言いたげな様子で灰洲の袖を引く。
「裏の木陰が丁度涼しい。茶は外で頂こう」
ごわつく弟子の頭をひと撫でした灰洲が戸部に目配せする。こんもりと丸く膨らんだ夜着を見つつ、戸部は「茶菓がなくて済まんな」と、小声で言った。
次に会う時は一緒に稽古をしようと約束して灰洲師弟が辞去したその翌日から、金吾の熱はようやく下がり始めた。
「凄い所にお住まいですねえ」
「手間をお掛けして申し訳ない」
明後日から新学期という日に東国から来た旅人が納屋へ立ち寄り、鎌倉で預かったと金吾宛ての荷物を届けてくれた。
何度も前を素通りしてしまったと言う旅人に冷や汗をかきながら礼を言い、届いたものを学園へ持って行こうと早速荷を解く金吾の邪魔にならぬよう、戸部は戸口の脇に立って金吾の父・武衛からの手紙を開く。
丁重な時候の挨拶に始まり、最近の関東の情勢とその周辺の動きについてや、戸部を始め教師陣へ謝意を表し金吾の学園での生活を気遣う文が続く。
いかにも武士らしい手跡で書かれた文字がそこだけ幾らか走り書きになった、三、四行ばかりの最後の段落へ差し掛かった時、戸部はふっと息を詰めた。
……子離れできぬ愚かな親よとお笑いになるかも知れませんが、手慰みに紐の細工をしておりました折、ふと見上げた庭木の上にぽっかりと息子の顔が見えました。いつ何時も子が気に掛かるが親の性、それが為に見た幻覚ではありましょう。それでいて、しばし目が合った時の鮮やかさは今もって幻とは思えません。何分遠方ゆえ我が子と言えどおいそれとまみえませぬが、戸部先生にお預け致しますれば諸事間違いはないものと家中一同確信しております。どうか、向後とも金吾を宜しくご指導頂けますよう、お頼み申し上げます。
恐惶謹言と結ばれたその部分を繰り返して三度読み、戸部は書面から目を上げた。
授業料の貫銭、小遣い銭、新しい手拭い、仕立て直しの小袖、墨と筆。荷の中身を整理しながら、金吾は品物をひとつひとつ丁寧に並べていく。
刀の下げ緒に頃合いな藍色の組紐を最後に床の上へ置き、きちんと束ねられたそれを撫でてキュッと口元を結ぶのを、戸部は眩しいものを見るような思いで眺めた。