十五、
道端にしゃがみ下を向いて草鞋を履き直している鼻先に、まとわりつくような強い異臭が漂った。
玉三郎は反射的に呼吸を止めた。急いで紐を結んで顔を上げ、なるべく息を吸わないようにしながら、きょろきょろと辺りを見回す。
「あんだ、これぁ」
偵察任務の帰り道だ。敵に捕捉されていたとしても、こんなひらけた場所で煙や霞の術を仕掛けられるはずはない。
村と村を繋ぐ野辺の一本道は、人はもちろん荷を運ぶ馬や車を引く牛も頻繁に通るし、車に積まれた荷が肥桶や肥料なことはままある。それが通ったのかと思ったが、目に付く範囲にいるのはこちらに背を向けて歩いて行く墨染の尼さんが一人と、その後ろ姿をぼんやり眺めている九丁目だけだ。
顔をしかめて鼻をつまんだ玉三郎は、風呂敷を背負って傍らに立つ九丁目に声を掛けた。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
「……」
「うわぁっ」
袴を引いても反応がない九丁目の膝の裏を掌底でスコンと叩くと、膝が折れた九丁目はまるで勢い良く正座するように一気に崩れ落ちた。
「危ないじゃないですか!」
きちんと膝を揃えた妙に端正な格好で地面に座り込んだまま憤然とする。その顔の方へ手で空気を扇ぎ寄せてやると、一瞬訝しげな顔をした九丁目は、パッと袖で鼻と口を覆ってのけ反った。
「何ですかこれ。目に染みる」
ふがふがした声で言いつつ非難がましい目付きで玉三郎を見る。正確に言えばその背後の大荷物を睨んでいるのだが、そうと分かっていても玉三郎は鼻白んだ。
「俺がクサいんじゃないぞ」
「荷の中に生の鯖でも入れてたんじゃないでしょうね」
「そんなことするかよ。魚は鰹節しか入れていない」
「何に使うんですか。道理で猫が寄って来るわけですよ」
互いに呼吸を惜しんで喋っているうち、鼻が慣れたのか風に吹き飛ばされたのか、胃袋をねじるような悪臭は次第に薄れてくる。それでも用心しいしい小さく息を吸って吐きながら、とにかく風上へ向かおうと意見が一致して、道端から立ち上がると早足で歩き出した。
途中で九丁目がちらりと背後を振り返る。
何気なくそれに倣った玉三郎は、遥か遠くに尼さんの頭巾が白くぽつんと浮かんでいるのを見た。
道の辺に生い茂るまるい草を一枚むしって鼻に押し当てた。
青くて苦い、しかし清涼な匂いを胸いっぱいに吸い込み、それを限界まで吐き出して、やっと肺腑の中が浄化されたような心地になる。
「その草、かぶれますよ」
「早く言えよ!」
ぽいと葉を放り投げ、玉三郎は慌てて腰に下げた水筒の栓を抜き鼻の頭をすすぐ。さっきの仕返しだと言いたげに涼しい顔でそれを見ていた九丁目は、あれからだいぶ歩いているのに、また少し後ろを向いた。
「あの尼さんが気になるのか? そんなに美人なのかよ」
手拭いで鼻を拭きながら冷やかし半分で玉三郎が言うと、九丁目は意外にもこっくり頷いた。
「若くて可愛くてすっごく美人でした。天女がいたらこんな姿かと思って、つい見惚れちゃった」
「早く言えよ」
今更振り返ってみても、今は植え込みくらいに見えるさっき二人が通り抜けてきた林の中へ尼さんはとうに入ってしまったのだろう、影も形もない。名残惜しげに玉三郎はしばらくそちらを見詰めていたが、やがて小さく首を振った。
「ま、いくらキレーでも尼さんじゃあな。それだけの容姿でまだ若いのに出家するってことは、何かのっぴきならない理由があるんだろう」
御家が潰れた姫様とか、旦那に先立たれた若妻とか、結婚相手が嫌で逃げた娘とか。
指を折りながら玉三郎が言うと、顎に手を当てて何か考えていた九丁目が不穏な可能性を付け足した。
「それとも、人魚の肉を食べたとか」
「八百比丘尼か? よせよ、おい」
「林の中に、道から外れた隠れた所に涌泉があったでしょ」
そう言って、九丁目は玉三郎が手にした水筒を指さす。折り重なる木々の向こうにたまたま見つけたその泉で水を汲んで来たのだ。ほとんど人目につかない、しかしきれいな水の湧く小さな泉だった――
「八百比丘尼は本来の寿命よりずっと長く生き過ぎているから、たまに真水で洗って浄めないと腹の中ではらわたが腐ってしまうんですって」
だから時期によっては近くに寄るだけでひどい臭いがする。そう言いながら、自分の腹を両手で掻き分ける仕草をして口元を歪める九丁目の表情に嫌悪はない。
「だけど、外見はずっと若くて綺麗なままの、不老不死。大昔から人が求めて止まないものですよ」
どうしてこいつは手の付けようのない重い病気の子供を見るような顔をしているのだろう。そんなことを思いつつ、玉三郎はふうんと軽く応える。
その軽さのまま、言った。
「俺は嫌だな」
「へ?」
思わずのように九丁目が立ち止まった。その反応に玉三郎が無言で眉を上げると、九丁目は風呂敷を背負ったまますっと背中を伸ばし、格好を付けて見得を切る時の玉三郎の立ち姿を真似してみせた。
「今までもこれからもずっとこの姿のまま、未来永劫オニタケ忍者隊一のイイ男! ――は、嫌ですか」
「ばあか。俺はまだ二十九だぞ。これから更に年を重ねてこそ、渋みと深みが増してますますイイ男になるんだ」
「へー。長く寝かせた味噌がおいしくなるようなものですね」
その例えは何か違うと思ったが、九丁目がそれで納得してしまったようなので、玉三郎は肩透かしを食った気分で頭を掻いた。
「それによ、」
言いかけると、まだ続きがあるのかと言いたげな顔で九丁目が横目をした。
「お前は二十四だろ。運良く天寿を全う出来るとすれば、俺より後だ。順当に行きゃあな。で、忍術学園のガキどもは俺より二十近くも若い」
「一年生の子たちとは親子ぐらい年が違いますね」
対等にケンカしてるけど、と笑う九丁目の口を両手でつねって黙らせる。
「俺が言いたいのは、だ。お前やガキどもや周りにいる人間たちが大人になっておっさんになって爺さんになっていくのを逐一見続けて、それを永遠に見送り続けなきゃならんのはしんどい、ってことだ」
人目を忍びひっそりと泉に入る尼僧の姿を想像する。
澄んだ水の中へ裸身を浸し、自分の手で白い腹を割いてはらわたを洗う美貌の若い尼には、淫靡さのかけらもない。
そこにあるのは、果てなく繰り返される会者定離の理に永遠に翻弄されるかなしさばかりだ。
口角を摘み上げる玉三郎の手をどうにか外した九丁目が、頬をさすりながら、これだけは譲れないとばかりに主張した。
「私は大人ですよ」
持て余した手をひらひらさせて、玉三郎は肩を竦める。
「分かってるよ」
だから俺は普通の寿命で十分だ。生きながら屍になるのはごめんだ。
殊更に深刻めかしても冗談交じりでもないごく当たり前な口調だったが、それを聞いた九丁目が泣き笑いのような変な顔をしたので、玉三郎は何かマズいことを言っただろうかと首をひねった。
林の上空をやかましく鳴き騒ぎながらカラスが飛び交っている。
足元の石を拾った九丁目は力いっぱいそれを放り投げたが、弧を描いて飛んだ石は林のずっと手前で失速し、草の中へ落ちて見えなくなった。