十四、
庄二郎をおんぶして裏庭で物干しをしている時、どこからか「庄ちゃん。庄ちゃん」と呼ぶ声がした。
どっちの"庄ちゃん"だろう、と戸惑った庄左ヱ門がきょろきょろと辺りを見回していると、物干し竿に吊った敷布の向こうから背の高い影が現れた。
「あれっ。炭焼きのおじさんのところの?」
庄左ヱ門が驚くのを見て、旅の格好をした二十歳ほどの男は照れくさそうに微笑んだ。埃っぽい手甲に包まれた手を上げてこめかみの辺りをかりかりと掻く。
「覚えててくれた? 嬉しいな」
「ええ、はい、びっくりしました。ご無沙汰してます」
黒木屋に炭を卸している炭焼きのおじさんの一人息子だ。
小さい頃から炭焼きを手伝い、時々は黒木屋にも顔を出していた陽気で快活な青年だったが、一年ほど前に「一生山の中は嫌だ。俺は武士になる」と言い出しておじさんと大喧嘩をして、家出してしまったと聞いていた。気は優しいけど、向こうっ気が強くて意地っ張りな子だからなあ――と、父ちゃんが言っていたっけ。
それが今、疲れた様子の旅姿で目の前にいる。
「家出はおしまいですか」
「あ、知ってるの? うん、おしまい。俺、やっぱり武士には向いてなかったよ」
庄左ヱ門の言葉に苦笑いして、男は丸い目をいっぱいに開いている庄二郎を覗きこんでべろべろばあをする。懐から小さな風車を取り出してフッと息を吹きかけ、カラカラ回る赤い羽に庄二郎が目を輝かせると、小さな手にそれを握らせた。そして感慨深そうに庄左ヱ門を見る。
「庄ちゃんにあげようと思ってたんだけどさ。もう、そんな子供じゃなかったなあ」
一年前はこーんな小さかったのに、と自分の膝のあたりを手で示したので、庄左ヱ門は口を尖らせた。
「いくらなんでも、そんなにちっちゃくないですよ」
「井筒に欠けしまろが丈、って言うじゃない。俺から見たらこんなぐらいちっちゃかったの。豆だよ、豆粒」
でも今は立派な兄ちゃんだね、と庄二郎の頬をくすぐり、庄左ヱ門の頭をぽんぽんと叩く。なんだかむず痒くなった庄左ヱ門は慌てて母屋の方を振り返って、言った。
「あの。父と母は出掛けてるけど、じいちゃんは店にいるから、良かったらお茶でも飲んでいって下さい」
「ああ、いいんだ。ちょっと寄っただけだから。俺はこれから家に帰るよ」
「そうですか?」
「うん。親父とお袋に怒られにね」
きっときつく絞られるなあ。笑顔のままで不安そうに瞬きする男を見て、そりゃそうですよ、と口には出さず庄左ヱ門は思った。
勝手に家を飛び出してから音沙汰もなく、どこそこで戦があったと噂を聞くたびにおじさんたちは身を切られる思いをして、この一年の間さんざんに気を揉ませたのだ。店を訪ねてきたついでに、息子を案じて泣くおばさんに貰い泣きする母ちゃんの姿を見て、自分が忍者になったあとの我が家を想像して少し深刻な気分になってしまったりもした。
この馬鹿息子めと怒って怒ってうんと怒って、それからちょっぴり泣くかもしれない。でもその後は、きっと心から「お帰り」と言ってくれる。
「なら、早く行かなくちゃ。おじさんとおばさん、喜びますよ」
「そうかなあ」
「ぜーったい喜ぶ! に、決まってます!」
「そうかなあ」
男はニコッと笑い、力を込めた顔をしている庄左ヱ門の頭をもう一度ふわりと撫でると、それじゃ行くよ、元気でなと言って踵を返した。
遠ざかってく足音と一緒に、軽い調子で歌う声が聞こえる。
――あら美しの塗壺笠や これこそ河内陣土産 えいとろえいと えいとろえとな 湯口が割れた 心得て踏まい中踏鞴 えいとろえいと えいとろえいな
――ただ人には慣れまじ物じゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事じゃるもの
るるる、るるるる、と機嫌の良さそうな声は遠くなり、やがて聞こえなくなる。
それを待っていたように庄二郎がむずかり始める。
立ち尽くしていた庄左ヱ門は、白日夢から醒めたような気分で背中の弟をよいしょと揺すり上げ、「そう言えば息子さんの名前は何だっけ」とふと思った。
「あと何日かのうちに物価が上がるかもしれんぞ。要るものは買っておいた方がいい」
夕食の席でじいちゃんが急に言い出し、鍋をかき回していた母ちゃんが眉をひそめた。
「あらいやだ。また戦ですか」
「そうそう。店番をしておったら、山三つ向こうの村から逃げて来たっていう人が来てな。もう小競り合いが始まっているんじゃと」
「その辺りの戦線なら」
あの城とあの城だな、と父ちゃんが口を挟む。目の前の魚の骨を外すのに熱中する振りをしている庄左ヱ門をちらっと見て、いくぶん声をひそめて続ける。
「片方は、炭焼きの倅さんが足軽をしている、って城だなぁ……」
「昨日あたりは大衝突があって、どちらも大変な被害だったそうじゃ。川の水が兵馬の流す――」
庄左ヱ門の箸がぴたりと止まる。
「おじいちゃん、漬物の塩加減はどうですか。漬かり過ぎてないかしら」
「ん? おお、絶妙じゃよ」
さり気なくじいちゃんの話を遮った母ちゃんは、黙々と魚をほぐすのを再開した庄左ヱ門を気遣うように見やってから、傍らで眠る庄二郎の産着をそっと整える。
箸を動かしながら、庄左ヱ門は考える。
こんな時くらい、もっとしおらしい歌をうたえばいいのに、意地っ張りだな。
庄二郎が眠ったまま手離さない風車が、音を立てて微かに回った。