十二、
ごく軽いものがスッと頬に止まった感触がして、疾風は間髪入れずそれを平手で叩いた。
手のひらの真ん中に黒い点が張りつく。
それをつまみフッと吹き飛ばして石組みの炉を見ると、蚊遣りの煙がだいぶ薄くなっている。腰を浮かせて生乾きの草をひとつかみ足し、それに火が移って燻り出すのを確認してから、嘆いた。
「まったくうちのガキどもときたら、人の嫌がることを喜んでやりやがるんだから」
葉のついた枝で蚊を追い払っていた由良四郎はそれを聞くと、はっはっはと声を上げて笑った。
「その言いようだけなら、ずいぶんと殊勝な話に聞こえるな」
「あいつらが進んで便所掃除やゴミ拾いをしやしない」
苦り切った顔で言って、疾風はこの岩場から見下ろす位置にある浜の方を顎でさす。
夜の闇の中で赤々と大きな焚き火が燃えている。その周囲にいるのは水軍の若手たちだ。一人ひとりの顔は、さすがにここからは見えないが、いくつもの黒い影が楽しそうに何かを語らっている様子はうかがえる。
寝苦しい夏の夜の暑さしのぎに、時間はあれど金はない暇人の定番、怪談大会の真っ最中なのだ。
若い衆が深夜になってぞろぞろ出掛けようとするのを偶然見かけ、勝手歩きは厳禁だぞと注意したのが疾風の不運だった。航が如才なくお頭の『夜遊び許可証』を示したので、叱責が宙に浮いて窮している隙に重と網問に両側から捕まえられ、抵抗儚く輪の中へ加えられてしまったのだ。
もちろん、とびきり涼しくなるようなとっておきの話を披露してくれるだろうと期待して――ではない。
「普段は肩で風切る手引の兄イが、それでなくても三十過ぎの大人の男が、お遊びの怪談話にぎゃーぎゃー騒ぐんだからそりゃ面白いわな」
「怪語れば怪来たるって言うだろ。話してると目の前になんか出そうで嫌なんだよ」
月と星の光で松明がいらないほど明るい夜なのはいいが、その為に"見えてしまう"のは非常に有難くない。
「分からんでもないけど、なあ」
由良四郎が同情半分、呆れ半分に言ってフーッと蚊遣りを吹く。
赤い火が一瞬パッと熾り、濃い白煙がもくもくと立ち昇る。
高台になった岩場は海と水軍館へ通じる浜の監視が一度にできる絶好の場所だ。が、背後が深い薮になっているせいで、じっとしているとたちまち蚊に取り囲まれてしまう。夏の間ここで見張りをする時は蚊遣りが欠かせないのだ。
煙たさに涙の滲んだ目をしばたたかせる少々しまらない姿で、疾風が憤然とする。
「そうと知ってて怖がらせて、それを笑いもんにするのはどうかと思うよ、俺は」
幽霊や妖怪の類が苦手だということは周知の事実とは言え、すぐに逃げ出すのも業腹なので小半刻ばかりは我慢した。それでもやはり駄目なものは駄目だった。
見張り当番なのを思い出したと言ってさり気なく場を立って来たのだが、今夜は由良四郎が当番のはずだと誰も指摘しなかったのは、散々からかった幹部へのせめてもの気遣いだろうか。
ムカつく。
「その辺はそれとなく注意しておくから、そうブツブツ言いなさんな。どうしてそうもお化けが嫌かな」
「怖いや嫌いに理屈はない」
「そう言っちまったら是も非もないがね。伊予の水軍には八匹の河童がいるって噂だぜ。案外、うちにもいたりしてな」
いたらどうする? と由良四郎に尋ねられて咄嗟に水練たちの顔を思い浮かべた疾風は、慌てて首を振った。
誰も頭に皿は載せていないし、口元も尖ってはいない。指の間に水掻きは――、後で確かめてみようか。いやいや、泳ぎが達者な人間なら水掻きくらい生えていてもおかしくない。あいつらはちゃんと人間だ。……河童は変身できたっけ?
呟くような音を立てて蚊遣りが燃えている。
速くなる瞬きをその煙のせいにして、疾風は口早に答えた。
「……べ、別に。万が一いたとしても、今のところ何も問題は起きてねえし、真面目に働いてるのを河童ってだけで叩き出すのは器が小せえ」
「へえ。そのまま置いておくのか」
「うちにいる以上はお頭の目に適った奴ってことだ。それなら俺も仲間として扱う……、たとえ河童でも」
「陸に上がった七人ミサキや船幽霊でも?」
「でも、だ。憚りながら船中の四功が一人のこの疾風、一旦仲間と認めた奴の素性は四の五の言わねえ!」
半ば自棄気味に疾風が言い切る。
炉に草をくべ過ぎたのか、白い煙が濃い霧のようになって一面に漂い始めた向こうで、由良四郎が笑いながら立ち上がる影が見えた。
「ちょいと用を足してくる。ひとりになって大丈夫か」
「馬鹿にすんな」
「はいはい」
いやに機嫌の良さそうな声の後にガサガサと薮を分ける音がして、由良四郎の気配が遠ざかり、すぐに静かになる。
ふんと鼻を鳴らして疾風は浜の方角を見た。人数はだいぶ減ったようだが、焚き火はまだ燃えている。
大体、暑けりゃ水を浴びるのが人の知恵ってもんだ。怪談話なんて肝は冷えても身体は冷えねえのに、それで涼しいつもりになろうって了見が間違ってる。……本当にうちに河童がいたらどうしよう。いや、いてもいいよ? いいけどさ。いくらなんでも今更怖がらないけどさ。
「疾風の兄イ?」
「ぎゃあっ」
突然後ろから肩を叩かれて、疾風は悲鳴とともに飛び退いた。振り返ると松明を片手に持った舳丸が目を瞠って立っていて、それを見た疾風は思わず「河童!」と口走った。
「俺がですか。……確かに、水掻きはありますけど」
「あるのかよ。じゃなくて、今のは俺が悪かった、すまん気にするな。そう言やお前は浜にはいなかったな。どうした、こんな所に」
「どうしたって、」
珍しく戸惑いをあらわにした表情で舳丸が辺りを見回す。
それで気が付いた。あれだけ立ち込めていた白煙がいつの間にかすっかり晴れている。ここは――高台の岩場ではない。
そこからずっと遠く離れた、浜の外れの磯の上だ。
「怪談大会の最中に兄イがふらっといなくなってそれっきり戻って来ないって、重たちが真っ青になって水軍館へ駆け込んで来たってんで、総出で探し回ってたんですが」
「そんな馬鹿な。俺はたった今まで、岩場の見張り台で由良四郎と喋っていたぞ。――由良四郎はどこだ?」
「お頭と館にいます。急な会議中でしたから。だから見張り当番は俺が代わって、岩場には俺がいました。探し手がそこへ回って来るまでは、他に誰も来ていません」
強張る疾風にじっと目を据えたまま、一言ずつ確認するように舳丸が言う。そして、急に手を伸ばして疾風の袖を掴むとそれに鼻を近付け、厳しく眉を寄せた。
「煙の匂いがしますね」
「……あそこでは蚊遣りを焚くからな」
「ええ、そうですね。……強い酒でも飲んで寝ちまうのがいいですよ」
後生だから水軍館まで一緒に行ってくれと頼むと舳丸は笑いもせず頷いたが、何なら手を繋ぎましょうかと真面目に提案してきたので、疾風はさすがに水練の頭の天辺をゴンと小突いた。
幸いなことに、頭巾の下で皿が割れた感触はしなかった。