十一、
裏々山の上を、細長い白布がひらひらと飛んでいるのを見た。
その話題を医務室へ持って来たのは、留三郎でちょうど二十人目だった。
「十九人目は?」
「文次郎」
伊作が答えると、留三郎は手当をしている伏木蔵が若干後ずさるほどに悔しがった。
取っ組み合いの最中に両者相打ちで同時に昏倒したらしい。しかし頬を腫らしながらも文次郎が先に医務室へ来たということは先に失神から回復したということで、打ち込みが浅かったかと、左目の周りに見事な青痣を付けた顔で留三郎が歯ぎしりする。
「なんでもいいけど、うちの後輩を怖がらせないでくれるかな」
「ん、おお。すまん」
「薬がしみますよー」
驚いただけで実はそんなに怯えてはいない伏木蔵が一言断り、ふくらはぎの派手なすり傷に新野先生特製の傷薬をたっぷり振りかける。声もなく悶絶する留三郎に、それを眺めつつ床に座って包帯を巻き直していた伊作が尋ねた。
「それで? 見たの?」
「……んな、何を」
「ひらひら飛ぶ白い布」
「俺は見てない。委員会中に、しんべヱと喜三太と平太が見たと言ってた」
長さ一反ばかりの白い布が空を舞っていた、風で飛ばされた洗濯物かと思ったがそれにしては急旋回したり宙返りしたり変な動きだった、あれは何でしょうと興奮気味に話す一年坊主たちを前に、思わず作兵衛と顔を見合わせたものだ。
それはおそらく本当にどこかの物干し竿からさらわれた洗濯物で、山の上で不規則に逆巻く風であちらこちらへ翻弄されていただけに違いないのだ。
だが、少々の恐怖といっぱいの好奇心できらきらした顔を目前にすると、そんなつまらない種明かしをするのも憚られて、そうだね不思議だねと調子を合わせてやり過ごしてしまった。
「文次郎は、三木ヱ門と団蔵が見たと言ってた。とすると、それが見えるのに年齢は関係ないのか」
巻き終えた包帯の上下をとんとんと叩いて形を整え、伊作がもっともらしい顔をする。その言い方に留三郎は引っ掛かった。
「それが見える、って。妖怪や亡霊じゃあるまいし、布なんて誰にでも見えるだろ」
「でも、乱太郎も見たそうなんですけど、一緒にいたきり丸には見えなかったらしいんですぅ。……以前、斜堂先生が仰っていたんですが、」
消毒が済んだすり傷に包帯を巻きつけながら、伏木蔵がうすく微笑む。
九州の辺りには夜空を飛び回る細長い白布の妖怪がいる。
見た目は何の変哲もない布だが性格は恐ろしく、人の顔や首に巻き付いて窒息させたり、ぐるぐると巻き込んで空の彼方へ連れ去ったりする。風まかせにはためいているように見えて、馬でも追いつけない速さで飛行することもある――
その正体は、長年使われて神性が宿った木綿の布だという。
留三郎がいくらか気味の悪そうな顔をした。
「でも、ここから九州は遠いぞ」
「最近はわりとあちこちに出るみたいですよぉ。生息域がだんだん北上してるんですって」
「外来種生物かよ」
「木綿がいくら丈夫でも九十九年は保たないけど、つくもがみの一種なのかな」
至極真面目に伊作が言い、最後の包帯を箱に収めると数を数えて少し眉をひそめ、立ち上がって棚にしまう。その背中へ、留三郎が危ぶむように声を掛けた。
「まさか本当に物の怪の類だと思ってるんじゃないだろうな」
「飛ばされた洗濯物がいつまでも浮かんでいるのも変だし、目撃者が多いしねえ。そうだったら面白いなとは思うよ」
「そういうこと言ってるとお前んとこに出るぞ、吸引体質」
「僕が吸い寄せるのは妖しのものじゃなくて不運や不幸だよ」
律儀に伊作が訂正する。巻き込まれる留三郎からすれば大して違わないが、もう一度傷薬をすり込まれるのも嫌なので黙っていると、伊作がふと苦笑した。
「でも、僕の所に来るなら来て欲しいかも」
「よしてくれ。俺が困る」
何を言い出すんだとばかりに留三郎が目を剥くと、伊作は苦笑いのまま留三郎の脚をちらりと見て、それから棚をポンと叩いた。
「だって、一反も木綿があったら、しばらく包帯に困らなくて済むもの」
伊作がそう口にした途端だ。
まるで蹴り倒されたかのように医務室の戸が端から順に内側へ吹っ飛んだ。
敷居を外れた戸が床にぶつかって跳ねる。咄嗟に伏木蔵を庇った六年生の耳に、風を切るしゅるしゅると甲高い音が長く尾を引いて聞こえる。その音は医務室の前の廊下をあちこちに衝突しながら通り過ぎ、最後にドカンと何かをぶち抜いて、やがて空の上へ昇って行った。
二人の陰から伏木蔵がそろそろと顔を上げる。
「びっくりしたぁ。……すごいスリルー」
「怪我はないか。すごい突風だったねえ」
呑気にそう言いながら、桟が折れ障子紙が破れた戸の修理費が下りるだろうかと心配気な顔をする級友の姿に、留三郎は畏怖すら覚えそうになった。
下級生たちが見たのはただの風に踊る布だ。それ以外であるはずがない。幽霊の正体見たり、と言うじゃないか。
しかし今のは、伊作の軽口を聞きつけたつくもがみが、切り刻まれて包帯にされてはたまらんと大慌てで逃げ出した――ように、留三郎には思えた。
考えてみれば、きり丸には見えなかったというのも、万が一にも捕まったら売り飛ばされる――それも、下帯にでも作り変えられて――のを神の勘で察したからではないのか。
「結局、ひとが一番怖い、ってか」
今の騒ぎを聞きつけておっとり刀で医務室へ人が駆けてくる気配を感じながら、留三郎は誰にともなくそう呟いて、鳥肌の浮いた二の腕をこっそりさすった。