十、



 肌を切るような冷たい風。
 が、頬を掠めてびゅんびゅん吹き過ぎる。
 風?
 いや、違うみたいだ。風が吹いているんじゃなくて、どうやら自分自身が凄い速さで移動しているらしい。狭い場所に嵌り込んだように縮こまって、手足を動かしてもいないのに。なんだこれ。
 この窮屈な感じ、以前乗せてもらった兵庫水軍の小早船に少し似ている。でも、もっともっともっと速い。巨大な獣の咆哮のような轟々という音が振動と共に絶え間なく身体中に響いて、前を向くと、これまた巨大な車輪が唸りをあげて回転している。なんだこれ。
 変だ。車輪が回るのを真横から見ているのに、身体は前へ進んでいる。なんだこれ。
 見回してみれば、すぐ頭の上には大きな庇がある。その他は目に入る限り一面が真っ青で、逆に眼下は真綿を豪勢に敷き詰めたような白い波また波。今まで見たこともない光景だ。なんだこれ。
 なんか眩しい。あ、太陽だ。普段見えるものより数段でかい。
 じゃあ、ここは空か。雲よりも高い天上を飛んでいるんだ。
 と言うことは、夢だ。
 はは、これは面白い。隼にでもなったようだぞ。


 夢のなかでこれは夢だと自覚する。
 それと同時に、いま自分に見えている光景は、誰とも知れない他人の目に映るものをその身体の中に間借りして一緒に見ているのだと、まるで理屈に合わない現象を何の疑いもなく理解する。
 その通り、夢に理屈はない。ただ、そうと分かるだけ。


 幻術や妖術が見せるまやかしの飛行術とは思えない。妙な言い方だけれど、何か整然とした理に従って飛んでいる感じだ。
 唐天竺、あるいは南蛮の絡繰なのか?
 こういうものをそうと知らないうちに図会で見ていて、それが夢に現れたのかな。同室の図書委員長が修繕する本を部屋に広げているのはしょっちゅうだから。
 両手の前には沢山の円が付いた板があって、目盛り付きの円の中では針がひとりでにくるくる動いている。水に浮かべた耆著みたいな動きだ。
 この視覚の持ち主と話はできないのか。これは何だ、と尋ねられないのは残念だな。どうやら人ではあるらしいけれど、空を飛ぶ絡繰をあやつるものに、私の言葉が通じるかどうか分からないが。
 空を飛んでいると何が見えて何が聞こえるのか、地上はどんな風に見えてどんな気分がするのか、聞いてみたいな。
 目が覚めてしまったら、それは鳥に尋ねるしか知るすべがないし、さすがに鳥とは会話できないから。

 お。轟々、の感じが少し変わった。――

 ――これは、
 凄え!
 なんて高さだ。
 雲を抜けて、下に見えているのは海か。大海の真ん中だ。波がきらきらしてる。いくつか浮かんでいる笹の葉みたいなのは、本物の船かな。頭の方をぐっと下げて、ぐんぐん近付いて行く。
 あ、やっぱり船だ――
 いや、船か?
 まるで城郭が丸ごとひとつ浮かんでいるようじゃないか。大安宅なんて目じゃない。総矢倉どころか、変な形の本丸の他に二の丸、三の丸まである。こまこまと動いて見えるのは乗員? おお、船中に鉄を張り巡らしてあるのか。贅沢だな。
 うわ!
 火矢だ。こんな高さまで、こんな勢いで、こんな続けざまに飛ばすとは。なんともはや、那須与一の大群が乗り組んでいるのか?
 さては、私たちは攻撃されているのかな。じゃあ、あの船――いや、やっぱり城? あれも絡繰か? ――は敵か。戦の夢だったのか、なあんだ。
 ん?
 あれ?
 おい、何をしようとしているんだ。
 そっちの方角には船がいるんだぞ。舵を――舵、でいいのか? とにかく舵を切れよ。このままじゃ船にぶち当たる。
 耳元で唸っていた風の音が気が付けばひどく遠い。頭の中がズンと重くなって、周囲の音が聞こえない。加速してるんだ。まっしぐらに船めがけて。
 よせよ、よせってば。聞けよ、おい!
 この勢いで船になんか突っ込んだら、間違いなく死んでしまうぞ。
 ああ、やめろ、駄目だって、――!

 がつんと額に衝撃が走った。
「……寝るなら、布団で寝ろ」
 聞き慣れた声に横を向けば、いささか呆れ顔の長次が、文机に向かって本を開いたままこちらを見ている。
 文机に突いた頬杖の手が外れて額と鼻先をしたたかに打った小平太は、起き上がって苦笑いした。
「試験勉強をしていたのに、ウトウトしてしまったか」
「熟睡」
 淡々と長次が訂正する。が、これは参ったと笑う小平太の顔を見て、訝しげに眉を寄せた。
「悪い夢でも見たのか」
「へ?」
 言われて拭った頬には、確かに濡れた感触がある。手のひらを見つめて首を傾げていた小平太は不意に厳しい顔をして、それから少し悲しい顔をした。

 只一度だけ聞こえた絶叫が耳の奥に残っている。それは勿論、夢の中の話だ。しかし、その声を言葉を、私は確かに聞いた。

「看取ったのかな、私が」
 小平太がいつになく悄然と呟くのを、長次は不思議なものを見るような表情でじっと眺めていたが、その意味をしいて尋ねはしなかった。


 いつかどこかで死にゆく見も知らぬ誰かと、戦国の世を生きる自分が、時代も場所も飛び越えたところで一瞬、交錯した。
 それが何かの宿縁に拠るものか、単なる神や仏の気まぐれか、そんなことは知らない。
 その通り、夢に理屈はない。ただ、そうと分かるだけ。



 『こんな事しなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ』