「よかった探し」
畳に染み込んだ墨はなかなか落ちない。
濡れ雑巾で何度も丁寧に叩いて、吉野はため息をついた。
ひっくり返った文机に本棚、床に飛び散る筆、硯、大量の書類と帳簿類。今日の事務室の朝は、棚の上のつづらを取ろうと文机によじ上った小松田の大転倒から始まった。立った位置がまずくて文机が傾き、慌てて伸ばした手が本棚を掴み、それで安定を崩した本棚が倒れて――と、まるで仕掛け屏風が展開していくように、あっという間にこの有様だ。
「まるで台風のあとみたいですねぇ」
当の本人が、鼻血止めの紙を鼻に詰めたまま、いたって呑気そうに批評する。
吉野は顔も上げず、雑巾をゆすぎながらつっけんどんに言った。
「お喋りしてないで、チャッチャッと書類を拾いなさい。墨がついたら大変です」
「はあい。チャッチャッ……と」
「口で言うんじゃなくて、手を動かすんですよ。それと返事は短く」
「はー……あ、はい」
桶の中の水は、真っ黒に染まっている。
書類作成を任せれば訂正印で真っ赤になるし、お使いに出て領収書は貰い忘れるし、物は失くすし壊すし。
「これくらいでいいでしょう。だいぶ墨が目立たなくなった」
「じゃ、この水、捨ててきますね」
「桶の端を掴むんじゃなくて、両脇から底を抱えて持ち上げなさい!」
毎日始末書だし、その始末書を書き忘れるし、いざ書いても誤字脱字の嵐だし。
本棚をよいしょと立て直し、小松田が拾い集めた紙類を取り上げた。案の定、通し番号がふってあるのに、所々抜けたり前後が入れ替わったりしている。
それを一つ一つ正しながら所定の場所に収めていく。
もう一度ため息をついたところで、小松田が戻って来た。その手には持って出たはずの桶が無い。
口を曲げた吉野が何か言う前に、小松田はニコッと笑った。
「桶、おもてに干してきました。湿ったままにしておくのは良くないですから」
「……そうですか。ご苦労様」
「朝から散らかしてごめんなさい。僕、お茶淹れますね」
そう言いながら壁際の棚の所へ行って、手早く茶器を取り出す。
吉野は口をもぐもぐさせながらその背中を見詰めた。無心に立ち回る姿を見るうち、何となくきまり悪くなってついと横を向くと、さっき片付けた小籠が目に入った。
お盆に湯呑みを載せて振り返った小松田に、「済まないけど」と言って棚を指す。
「ついでに、その籠を取ってくれますか」
「このちっちゃいのを?」
「お盆は先に預かります」
さすがに用心しているのか、小松田は必要以上におっかなびっくり小籠を取り上げ、それを吉野に両手で渡した。
竹を編んだ丸い籠だ。その蓋を開ける途端、甘い香りがふわりと漂う。
中には笹の葉でくるんだ羊羹が数切れ。
「貰い物だけど、少しだけだから、2人で頂いちゃいましょう」
「えっ、いいんですか?」
わざと声をひそめて吉野が言うと、小松田はびっくりしたように目を瞬いた。
それをかわすように湯呑みを取り上げ、一口啜る。
「君がお茶を淹れると美味しいですね」
「わあ、本当ですか。お兄ちゃんに、じゃなくて兄に、淹れ方を教えて貰ったんです」
「そうですか。それはいいことだ」
嬉しそうに顔をほころばせる小松田に向かって、深く頷いた。顎が胸に付くくらいに深く。
お茶を淹れるのは上手。とりあえずは、まあ、それでいいか。
「今のうちにお食べなさい。他の人には内緒ですよ」