「と」


 涼しい木陰で鳩の群れがのんびり寛いでいる。
 その中にずんずん分け入って行くと、鳩たちは大慌てでわっと地面から飛び立った。
 賑やかな羽音と顔の上をよぎる影に三治郎は眉をしかめる。砂粒が降ってきたような気がして、それを避けるつもりで首を振った拍子に、長屋の廊下の所で三年生たちが何やらわあわあ騒いでいるのが目に入った。
 フヒョー、とかケーマ、キョーシャ、という単語が右に左に飛び交い、廊下の端では、箱膳のようなものが短い足を差し上げてひっくり返っている。地面へ降りている何人かの先輩たちは、廊下の下を覗いたり草の根本を掻き分けたりして、一生懸命何かを探しているようだ。

 僕には関係ないや。

 手のひらに載せたものを、ひいふうみいとしかつめらしく数えていた孫兵が、ふと顔を上げた。
「やあ。どこ行くんだ?」
 見なかったふりで庭先を横切ろうとしていた三治郎に向かって軽く声をかける。
「別に、どこにも……こんにちは」
「このまま進んだらたぶん落とし穴があるから、気をつけろ。しばらく前に綾部先輩がここを通って行ったから」
「そうですか。ありがとうございます。……どうしたんですか」
 今は厄介事に関わりたくないけれど、どう見ても何かが起こった後のこの状況をまるっきり無視するのも気が引ける。興味はありませんが礼儀として一応お聞きしますという顔で三治郎が尋ねると、草むらにしゃがみ込んで腰を屈めていた藤内は、その格好のままぐうっと背中を伸ばして苦笑いした。
「ついさっき、兵太夫がこの廊下の下から飛び出して行ったんだ」
「ラッコの勢いだったぞ! あ、飛車見つけた」
「脱兎な。俺たちはここで将棋を指してたんだけど――角行みっけ。今のは何だと思ってたら、」
 左門の補足を訂正して、木の枝に引っかかっていた駒を回収した作兵衛が、ずっしり重そうな逆さまの将棋盤をぺちんと叩く。
「廊下の板が一枚、いきなりバネ罠みたいにスパーン! って回転して将棋盤が吹っ飛んだんだ」
「駒も一緒にあちこち飛んじゃったから、みんなで拾い集めているところだよ」
 とんとんと腰を叩きながら今度は藤内が補足する。それが聞こえたのかどうか、床下から「やっぱり歩兵ないよぉ。そっちはぁ?」と、三之助がもっと奥にいる誰かに尋ねる声がした。「なぁい。でも王将があったぁ」と答えた遠い声は、それでは数馬か。
「たぶん、からくりを発動させたんです。申し訳ありません」
 わざとやったのか、わざとじゃないのかなんて、僕の知ったことじゃないけれど。
 もごもご言って三治郎が頭を下げると、いつの間にそんなものを仕掛けたんだと目を丸くする左門を押しのけて、作兵衛は興味津々の顔つきで床板を指差した。
「それよりさ。あの回転仕掛け、どうやって作るんだ? 用具委員として気になる」
「僕がやったんじゃないから分かりません」
「そうか? でも、見当はつくだろ? 三治郎と兵太夫はよく二人でからくりを作ってて、上級生にも負けない腕だって、しんべヱたちが自慢してたぞ」
 それを聞いた途端、ぴりりと頬が引きつった。
 三治郎がちょっぴり口元を歪めたことに作兵衛は気付かない。この仕組みを応用してバリスタみたいなものを作れないかな、と目をきらきらさせながら、自分の両腕を梃子に見立ててぱたぱたと動かしている。

 ……力点の場所はそこじゃない。

 ついと目を逸らして短く答える。
「すいません。分かりません。駒を探すの、手伝いましょうか」
「顔が嫌がってるよ。大丈夫、人手は十分だから」
 自分の顔を指して孫兵はちょっと笑い、気を悪くしたふうもなく言う。ぎくしゃくと頭を下げて三治郎が踵を返そうとすると、立ち上がって背伸びをした藤内が、ふと首を傾げた。
「そう言えば、兵太夫と三治郎、今日は一緒じゃないんだな。兵太夫もひとりだったけど、何か」
「知りません」
 はねつけるようにつっけんどんに遮ってしまってから、一斉にきょとんとした三年生たちの顔を見て、三治郎は心の中で唇を噛んだ。

 ああ、もう、嫌になっちゃう。先輩たちは何も知らないのに。八つ当たりなんてしたくないのに。
 自分の狭さなんて、僕はもう知りたくないのに。
 だけど、今日の僕たちの間には「と」なんて無いんだよ!

 足の下の地面が急に厚い綿に変わってしまったような、なんとも収まりの悪い空気が辺りに漂う。
 丁度床下から這い出て来た三之助が、気詰まりそうにもじもじする三治郎を見て目をぱちくりする。それから、何となく黙り込んでいる同級生たちの方を見て、何を思ったのか半分ほど後戻りする。押し返された数馬が「何、どうしたの」とじたばたしている雰囲気が、三治郎のところまで伝わって来る。
 引っ込んだまま三治郎と三年生を見比べ、二、三度首をひねって、三之助が口を開きかけた。
「失礼しました。失礼します」
 早口に言ってくるりと背を向ける。
 「どうしたの」なんて、いま一番言われたくないことを言われる前に、三治郎はどんどん走ってそこから逃げ出した。


 僕は悪くない。
 悪いのは兵太夫だ。
 そりゃ、初めはほんの些細なことだ。だけど僕が真剣に怒っているのに、真面目に受け取らないでへらへら笑ってやり過ごそうとして、その態度を僕が怒ったら、これくらいのことで尖(とんが)り過ぎだって逆に怒りだして、「"これくらい"とはなんだよ」「なんだとはなんだよ!」なんて売り言葉に買い言葉の大喧嘩になってしまった。
 でも、僕は悪くない。すぐに茶化してふざけようとする兵太夫が悪いんだ。
 絶対の絶対に、こっちから謝ってなんてやるもんか。


 思い出し怒りで頭を熱くしながらぐいぐい歩いて行くと、行く手の地面の上に、不自然な格好で木の枝が落ちているのが見えてきた。
 近くに罠がある印だ。
 が、そのすぐ向こうには、ぽっかり口を開いた落とし穴が見える。親切なまでに分かりやすい合図を見逃したうっかり者がいるらしい。
 そう言えば、綾部先輩がこっちの方へ行ったって孫兵先輩が言ってたっけ。こんなにあからさまな目印なのにどこの間抜けだろう。
 ふんとひとつ鼻息を吐いて、意地悪な気分のままに、三治郎は落とし穴の上へ頭を突き出した。

 うつむいた後ろ頭と細いうなじが見える。土をいっぱいかぶった頭巾は井桁模様だ。顔の両脇にもさっと垂れた髪にもまぶしつけたように石ころや土の塊をくっつけて、膝を抱えてうなだれている、あの鈍くさい一年生、は。
 兵太夫だ。

 捻挫しちゃったのかな、と咄嗟に思った。足が痛くて動けないのかな。
 穴はそんなに深くない。縄を持っていれば楽々と、持っていなくてもちょっと頑張れば、よじ登って脱出できそうな程度だ。それなのに、兵太夫は穴の底でぽつんとうずくまって、こそりとも動かない。
 声を掛けてみようか。でも、なんて言えばいい? 何を言えばいい?
 毎日毎日、他愛もないことをあんなにとりとめもなく喋り合っているのに、こんな時ばっかり言葉が見つからない。
 穴の縁に突っ立ったまま三治郎がぐるぐる悩んでいると、頭の上に影が差したのに気付いたのか、兵太夫が冬眠から覚めた熊のようにのっそり首をもたげた。
 目を細め、ちょっと眩しそうな顔をして、それからしかめっ面をする。
 そのおでこも目の周りもほっぺたも、鼻の下まで、ごしごしこすったように泥だらけだ。
「自分の先輩が掘った穴に落ちるなんて、何やってるのさ」
 三治郎が呆れてみせると、口を尖らせた兵太夫はぷいと横を向いた。
「考え事をしてたんだ」
「ドジだなあ」
「うるさい。あっち行けよ」
「富松先輩が、回転床のからくりに感心してたよ」
「……仕組みを思い付いたのは三治郎だろ」
「仕掛けたのは兵太夫でしょ。駒があっちこっちすっ飛んじゃったって、三年生たちが探し回ってる」
「……」
「迷惑をかけたんだから、謝ってきなよ。一緒に行ってあげるからさ」
 膝を折って屈み、穴の中へ手を差し伸べる。
 横目でちらっとそれを見た兵太夫が、渋々の体(てい)で腰を上げ、手を伸ばしてきゅっと掴む。
 小石に混じって兵太夫の髪に引っかかっていた歩兵の駒が、その拍子にくるりとひっくり返って、襟元から懐の中へすぽんと落ちた。