「視線」
糊を効かせすぎた着物のようにぎゅっと肩を縮こまらせて、三木ヱ門が熱心に手を動かしている。
ふとした拍子に顔の横から落ちかかる髪を無造作に跳ね上げ、時たまひらりと睫毛がはためくものの、一時も手元から目を逸らそうとしない。鼻先や頬がうっすらと赤いのは、だいぶ長いあいだ冷たい空気にさらされているせいか。
季節はいまだ冬。陽だまりの廊下とは言え、寒いものは寒い。
日差しも入らず火鉢もない部屋の中よりは、それでも明るいぶんだけまだマシだ。
そんな理由で長屋の廊下に腰を据えて、三木ヱ門は苦無の手入れをしていた。
少しずつ向きを変えながら根気よく砥石にかけ、よく揉んだ楮紙で油を引いて、刀身を日光にかざす。刃がしっとりした光を跳ね返したら出来上がりだ。傍らに広げた手拭いの上に戻し、次のひとつを取り上げる。
鼻をくすぐる油と松脂のにおい。硬い金属が触れ合う清冽な音。手の中に丁度良く収まる鋼の重みが快い。
愛してやまない銃火器たちに注ぐ情熱は情熱として、いつも持ち歩く道具だってぞんざいに扱ったりはしない。単調なようで慎重を要する作業に没頭するうち、やせ我慢していた寒さも気にならなくなって、手にしたひとつをきれいに磨き上げることにのみ意識が集中する。
だから、不意に手元が陰った時は、いつの間にこんなに日が傾いたのかと驚いた。
「やっぱり聞こえてなかったか」
慌てて顔を上げたのと同時に、丸めた紙束でぽこんと額を叩かれた。
「討ち取った」
「痛い――、じゃなくて、すみません! 臨時委員会ですか?」
「あー、ただの連絡だ。座ってていい」
あわあわと立ち上がろうとする三木ヱ門を額に当てたままの紙束で押し返して、知らぬ間にすぐそばの庭先に立っていた文次郎が、ごく軽い調子で言った。
「俺は明日からしばらく委員会に出られん。その間の指示を書き出したから、目を通しとけ」
「しばらく? って、どれくらいです?」
目の前に突き出された書き付けの紙の束は随分と厚い。それを両手で受け取りながら三木ヱ門が尋ねると、文次郎はくるりと目を動かして、少し考えた。
「短くて十日。――いや、十五日はかかる」
「え、」
半月も一体どちらへ、とつい言い掛けて、三木ヱ門は口をつぐむ。不在にする時期の長短に関わらず、実習か任務か他の用事かなどと聞いてはいけないのが忍者の不文律だ。
尋ねる代わりに丸まっている紙を広げた途端、三木ヱ門は思わず唸った。
「おおう……」
「口頭でそれだけ喋るのは面倒なんで、手抜きをした」
月末までに済ませておくべき仕事、通常作業の手順から判断に迷った時の指示、果ては文句をつけに来た他委員会のあしらい方まで、微に入り細に入りびっしり書き込まれている。めくってもめくっても黒々と文字が詰まった書面に面食らう三木ヱ門をよそに、文次郎は涼しい顔をして、ぴかぴかの苦無を勝手に取り上げてもてあそぶ。
「……先輩、先輩。ここの部分がちょっと」
「読めないような字は書いてねえぞ」
「いえ、読めますけど、この進行予定……、主戦力の先輩がいらっしゃらない状態では、このペースで仕事を進めるのは」
「気張れ」
一蹴された。
「会計委員会心得に、無理、不可能、出来ない、は無い」
「そ、それはそうですけども……ええええ、えーと、手が早いのは団蔵で正確なのは左吉で……授業が終わったらすぐに左門を捕まえて……作兵衛に協力を頼んでおくべきかな……」
「ひとつ借りて行くぞ」
早くも悩み出す三木ヱ門に文次郎は一方的に言い放ち、丹精して磨き込んだ三木ヱ門の苦無をひょいと自分の懐に入れてしまった。
「あぁ、それ手入れしたばっかりなのに」
「盗りやしねえよ。必ず返すから心配すんな」
難題で頭がいっぱいになっていた三木ヱ門がつい不満気な口をきくと、それをあっさり受け流して、文次郎は指先で三木ヱ門の額をぺんと弾いた。
「でも、折角きれいにしたのに、使ったら傷がつくじゃないですか」
「そりゃそうだが。お前、苦無を飾っておく気か?」
良く晴れた日の長屋の廊下は、風さえなければ居心地がいい。
季節はすでにそんな気候に移り始め、じっと下を向く三木ヱ門の頭の後ろに、肩に、腕に、柔らかな日が差し掛けている。
黙々と砥石を使いながら、片手に持った苦無を時折掲げては、そこに映る自分の瞳を確かめるように刀身を覗き込む。やがて小さく頷くと、それを手拭いの上に置いて、別の苦無を手に取る。
一見脇目も振らず無心に作業しているその姿勢は、しかし、やや集中を欠いている。
委員会の作業に必要な道具があれこれ突っ込んである棚の一画が整然としていることには、文次郎の姿が消えた日に気が付いた。
これが出来なきゃ後が怖いぞとお互いを叱咤し合い全員でへろへろになりながら、委員長不在のまま迎えた月末をどうにか乗り切った。
月が改まってすぐ図書委員会が張り出した「次の者は速やかに本を返却すること」一覧に、常習の文次郎の名は無かった。
十五日と区切った日数はとうに過ぎ、あれからひと月近く経ったが、文次郎はまだ戻らない。
何の為に出掛けたのか、今どこでどうしているのか。消息は分かっているのか。誰にも尋ねることは出来ないし、仮に問うたところで答えを貰える筈もない。それが忍者というものだ、と、承知している。
そして忍者は現実主義だ。
喜八郎が愚痴るには、仙蔵は近頃少し神経質らしい。団蔵が聞き込んできた用具委員の噂によると、武闘派で鳴らす留三郎が最近はなんとなく大人しいそうだ。校庭の隅で、廊下の端で、声をひそめ伏し目がちに立ち話をする六年生や先生の姿が、ここのところいやに目に止まる。それらは全部、どうということもない、取るに足らない単なる「事実」で――道具棚の私物がさっぱりと片付けられていたのも、図書室の本が期限前に返却されていたのも、事細かな指示書をわざわざ書き残したことだって、ただそれだけの「事実」であるはずだ。
そこに勝手に見出した意味など、要らぬ感情を抱く根拠に成り得ない。
あと半歩も踏み違えればたちまち心が乱れそうになる自分にそう強弁して、やり場のない不安と欠落感を抱えたまま何でもない顔をして日々を過ごすことに、確かに少々疲れてはいる。
けれど。
研ぎ終わった苦無を持ち替え、油を含ませた紙で細かな削り屑を手早く拭い、別の紙で丁寧に油を引く。
慣れた動作は我ながら滑らかで迷いがない。
忍者が苦無の手入れをするのは当然だ。だからこれも、必要な作業をこなしているだけの、ごく平凡な日常の一端だ。
あの日のように廊下に座り込んで苦無を磨いていたら、またふらっと先輩が現れないかな、なんて――そんな馬鹿みたいな思い付きで道具を持ち出したんじゃない。
だって、「必ず返す」と先輩が言ったんだ。それも言葉にすぎない言葉ではある。でも、その言葉を口にしたのは潮江先輩だということが、信じるに足る十分な理由になるだろう?
頑なに手元を見つめたまま一心不乱に手を動かし、そんなことばかりぐるぐる考えている。
だから、うつむいた額を小突かれるまで、また気付かなかったのだ。