「この手の中の枠は枷」


 高坂が任務中の小競り合いで怪我をしたと聞いた途端、雑渡の雰囲気が変わった。
 胡座を崩して片膝を立て、その膝に組んだ両手を引っ掛けて、見えない壁に寄りかかるように体を後ろへ傾ける。
「威力偵察で敵の戦力を測れとは、私は指示していなかったよな」
「はい」
 怠惰にも見えるその姿勢で不遜に尋ね、正対して端座する山本は短く答える。
 タソガレドキ城と隣の城との領地が接する場所に、広い田畑を抱える村がある。土壌に恵まれ収穫期には相当額の税収が見込めるその村は、現状どちらの城の勢力下にあるかを調べるのが、今回の任務だった。
 街道筋に位置することもあって、他所者に対する目は幸い厳しくない。作物買い付けの相談に来た商人を装っての調査は上首尾に済んだが、一行が引き揚げようとしている時、畑帰りの風体をした男が「この辺りでは聞かない訛りだが、どこから来たのか」と声を掛けてきた。
 商家の主に扮した山本が男と一言二言交わす間に、男が担ぐ鍬にこの村には無い色の土が付着していることに高坂が気付くと、男は鍬を投げつけ口汚い言葉を叫んで横っ飛びに逃げ出した。
 放っておけという山本の制止に耳を貸さず、高坂はそれを追った。
「竹藪の奥で見つけた時には、五人と対峙していました。こちらを見て相手はすぐに散りましたが、おそらく、隣城の手の者かと」
「憶測はいい。正確なところは追って調査しろ。陣左の状態は」
「深手はありません。ただ頭を打っているので、諸泉を付けて安静を取らせています」
「ふーん」
 ゆらゆらと前後に体を揺すりながら、雑渡は面白くもなさそうに言う。
「落とし穴を踏み抜いて落ちた怪我なら、やーい間抜け、で済むのにな」
 その声の調子に覆面の下で頬を強張らせた山本は、僅かな間、言葉を失った。口をつぐんで深く上体を折る。
「深追いを許したのは現場にいた私の責任です。申し訳ありません」
「目が塞がった猪は下手をすれば黄泉までも一直線に突っ込む。御するのは無理さ」
「分別なき獣ならばさも有りましょう。しかし、高坂は」
 顔を伏せたまま、低い声で山本が言う。
「組頭の許し無くしては死なぬ、と。帰城の道々に叱りつけたところ、朦朧の態のまま、そう答えました」
「ふーん」
 鼻先で気のない相槌を打つ組頭の前で、山本は、額が床に触れるほどに一層頭を下げた。

 額突いた頭に、白い晒が巻かれている。
 そこにぽつりと鈍い赤色の染みが滲んでいる。
 遊女顔負けに大きく抜いた着物の襟から覗く首筋や胸元は、婀娜(あだ)っぽさのかけらもない貼り膏薬に隙間なく覆われ、練った生薬の臭いが部屋中に濃く漂う。腕が軋んで自重を支えることさえ辛いのか、それともしたたかに頭を打たれた痛手がまだ残っているのか、床に突いた手は細かく震えている。
 雑渡の姿を目にした瞬間、薄い布団に黙然と仰臥していた高坂は飛び起きて平伏した。
「佳い格好になったな」
 その頭の上から、いつもと変わらない調子で雑渡の声が降る。崩れた蹲踞で布団を踏んでしゃがみ、膝に肘を置いて頬杖を突いた横着な姿勢で、固い床の上にうずくまる高坂を眺め回す。
「申し訳、」
「役者不足。違うか。こういう場合は役不足と言うんだっけ」
 詫言を無造作に遮られて、高坂は声を呑んだ。
「お前に何が出来て何が出来ないかは私が承知している」
「――存じております」
「であれば、なお悪いな」
 へらへらと軽い口調に、底光りする剣呑な何かが混ざる。
「それを知りながら独断専行で命令を逸れたと言うことは、お前の力量を慮って私の指示した任務が、お前にしてみれば物足らなかったというわけだ。随分と僭越じゃないか」
「違います!」
 高坂は思わず反駁した。急激に上げた頭がくらっとして、一瞬、目の前が真っ白になる。
「組頭のご深慮に叛くつもりは毫もありません。いかなる制裁も受ける覚悟でおります。ただ、あの時は、敵が組頭のことを――」
 頬杖を外した雑渡は矢庭に片手を伸ばし、突き飛ばすようにして高坂の左肩を掴んだ。
 咄嗟に払い除けようと動いた高坂の手が空中で止まる。その手が体の脇に落ち、握りしめた拳にたちまち血管と腱が浮き上がる。
「分をわきまえろと言っているんだよ。分からないかなぁ」
 雑渡は物憂げに呟き、鎖骨と貝殻骨をまとめて掴み割ろうとでもするかのように、関節の隙間に指を噛ませてぎりぎりと食い込ませる。その圧力に負けた膏薬が撚れて剥がれ、雑渡の指にまつわりつく。
「指示の範囲ならば、"起こり得ること"も含めて、私は全体を把握しているよ。それをするのが私の仕事だからさ。なればこそ、勝手にそこから逸脱されると、色々と手間が増えて面倒臭い」
 疼痛と激痛を堪えて前のめりになった高坂の上体を、喉頸に手を滑らせてぐいと引き起こす。半ば片手で吊り上げられるような形になった高坂は目を見開き、否応無くぶつかった視線を逸らせずに、凝然と組頭を見た。
 その目の中心を雑渡は射すくめる。
「向後一切、私の知らない所で許可のない行動をするな。制裁云々についても私が決めることだ。お前が口にするのは越権と知れ」
 息苦しさと痛みに一声も上げず耐えている高坂の頭が、僅かに振れた。その弾みに緩んでいた晒が元結もろとも解け、流れた髪が顔や肩へぱらぱらと落ちかかる。
「――とは言え、任務の外で体を損なうのは馬鹿らしい」
 投げ出すように言って、雑渡はぱっと手を離した。腰から崩れた高坂が体を折って喘ぎながら咳込むのを無言で眺め、自分の手を見下ろして、微かに厭わしそうな表情をする。
 出し抜けに、戸の外で歯切れの良い声がした。
「諸泉です。入ります。――あれ、組頭、いらしてたんですか」
「いらしてるから居るんですよ」
「屁理屈だ。怪我人がいるんですから、お静かに願いますよ」
 ひょいと腰を上げた雑渡は、戸口に立って厳しい顔をつくる諸泉の頭を、手のひらでポンと叩いた。
「不死身の忍者を見に来ただけだ。もう退散するよ」
「え? なんですか、それ」
 面食らう諸泉に胡散臭い笑みを向け、精々養生しろと言い置いて、雑渡は悠然と部屋を出て行く。
 その後姿と、彫像のようにぴたりと動きが止まった高坂へ交互に目を向けて、諸泉は不思議そうな顔をした。首をひねりながら高坂の前に膝を突き、その顔をじっと見て少し表情を曇らせたが、すぐにニコリとする。
「厨房で、きやすめの薬湯を煎じて貰いました」
 運んで来た盆を差し出す。大振りの分厚い茶碗を前に絶句した高坂に、気休めじゃなくて気安めですと、宙に字を書いて説明する。
「心が落ち着きます」
 口の中で礼を呟き、高坂は両手で茶碗を取った。淡い湯気の下で揺れる薬湯はなんとも言えない色をしていて、そこに映っている顔は、やはりなんとも言えない色を浮かべていた。
 その場を離れた諸泉は高坂に背中を向けて床に座り、新しい晒を丁寧に裂き始める。
 少しの間それを眺め、軽く息をついて、高坂は茶碗を持ち上げ一口含んだ。
「……」
「不味いでしょう」
 でも、よく効くんですよ。壁のほうを向いたまま、真面目くさって諸泉が言う。
「飲み下すのに勇気がいる味だな」
「それを飲んだら晒と膏薬を取り替えます。人払いをしておきますから、その後は大人しく寝ていて下さい」
「面会謝絶かよ」
 痺れるほど苦く、日向水ほどぬるい薬湯を口の中で転がしながら、高坂はひりひりする喉をそっと撫でた。