「空気」
塀に引っ掛かけていた鉤縄が、何の前触れもなくぶつんと切れた。
あわぁ、と塀の向こう側で声がして、続けてどすんと重いものの落ちる音が聞こえる。それに被さるように「あっちだ」と誰かが怒鳴り、いくつもの足音が重なって次第に近づいて来る。
「もう」
しばらくそれを聞いていた九丁目は一言こぼし、道端に置いておいた身の丈ほどもある風呂敷包みを背負うと、塀に沿って走り出した。
嫌でも目立つ大荷物がなるべく人目につかぬよう気を配ってはいるが、村外れにある貴人の別邸周辺は刈り入れが終わった田畑が寒々しく広がっているばかりで、人間どころか猫の子一匹見当たらない。
それでなくても大晦日の深夜だ。大抵の善良な市井の人はとっくに新年を迎える準備を済ませ、暖かい家にこもって団欒を楽しんでいる頃で、こんな時分にまだゴソゴソやっているのは暇人と悪人と忍者くらいのものだ。例えば別邸の奥で良からぬ話し合いをする不良貴族と野伏の頭領とか、その内容を探り出そうとするオニタケ忍者とか。
角を曲って屋敷の裏へ回る。潜入前に塀を切っておいた所へ辿り着くと、穴を隠していた荷車をどかして、再び辺りの音に耳を澄ませる。
乾いた炸裂音が一回、二回と屋敷の中で鳴る。思わずびくりとした体を自分の腕で押しとどめ、九字を呟き強いて静かに呼吸をする。怒声や叫び声、大勢が入り乱れ立ち騒ぐ緊迫した気配がだんだんこっちに来る――
と思った瞬間、ごおんと鳴り響いた鐘の音がそれをかき消し、我知らず九丁目は舌打ちした。
脱出経路は複数用意しておくべきだと、主張したのは玉三郎だった。
山ほど忍器を持っているのだから、脱出に失敗したらその時に次の手を考えればいいと反論すると、玉三郎はふふんと不敵な表情をした。
「甘いぞ、九丁目。一流忍者は常にあらゆる状況を想定して準備しておくもんだ」
「あらゆる状況を想定したからこの大荷物なんでしょ。どうせならこっちを活用しましょうよ」
夕間暮れに人目を盗んで苦無で塀を削りながら言い合っていた時は、まさか鉤縄が傷んでいるなんて思ってもみなかったのだ。
この穴は無駄になったほうが良かった。だけど今、ここから玉三郎が出て来なかったら――出て来られなかったら、それでもやっぱり無駄になる。予備の経路を使わない、と、使えない、では、一字違いで大違いだ。焦れた気分で暗い穴を見つめ、無意識に何度も足を踏み変える。
突然、ふぎゃあバリバリどすんばたんと騒々しい音がして、九丁目は飛び上がった。一呼吸おき塀を越えてぽーんと風呂敷包みが飛び出し、足元の穴から玉三郎がひょいと顔を出す。その顔はどういう訳か引っかき傷だらけだ。
「おう、無事か」
「いいから早く早く」
急かしつつ手を掴んで引っこ抜く。玉三郎は身軽に立ち上がり、先に投げておいた風呂敷包みを背負うと、九丁目を振り返ってニヤリとした。
「行くぞ」
「はい!」
塀の中で交錯する獣の唸り声と人の悲鳴を背中に、二人揃ってわっと駆け出した。
反対側の村外れまで一目散に走り、追手がいないのを確認して、やっと足を緩める。弾む呼吸を整えつつ、九丁目は玉三郎の顔を見上げた。
「どうしたんです、それ」
近くで見るとまるで髭剃りに派手に失敗したような有様で、縦横に走る傷にうっすらと滲む血が痛々しい。玉三郎は頬をひと撫でしてひょいと肩をすくめた。
「植込みの陰を逃げていたら、野良猫一家のねぐらに踏み込んじまってな。引っかかれたのなんのって。オニタケ忍者一のいい男が台無しだぜ」
「そうですか」
「子猫を追手のほうにけしかけたら案の定親猫がそっちに飛びかかったから、その隙に逃げ出した」
「ひどいなあ。猫がかわいそうですよ」
「でも頬傷がある男ってちょっと格好良いよな」
「そうですね」
反応の温度差を気にする様子もなく、玉三郎は顎に指をかけ苦み走った表情を作ってみて、「やっぱ痛え」と小声で呟いた。
またひとつ鐘の音が遠くで鳴る。
星明りで白っぽく見える乾いた土の道を、肩を並べてゆっくり歩く。玉三郎は身振り手振りを交えて、だいぶ脚色したのだろう脱出劇の様子を、熱心に喋り続けている。その声を聞きながら、冷たい夜気の中にほうっと息を吐く。
白いもやが立ち昇り、ふうわりと広がって、風のない夜空に滲んで溶けてゆく。
その最後の尻尾が消えるのを見届けてから、九丁目は口を開いた。
「玉三郎と九丁目は足して割って二.七五流の忍者だって、この前、春牧行者さまが仰ってました」
名調子を遮られた玉三郎は一瞬ぽかんとしたが、すぐにクッと片方の口の端を吊り上げた。
「半端な数だが、足しっぱなしだと五.五流ってことは、お前、ちょこっと格上げしたんだな」
良かったじゃねえかと気楽な調子で肩を叩かれて、九丁目はちょっとよろけた。
自分が格下がったとは思わないところが玉三郎らしい。もっとも、首領は玉三郎が一流忍者だなんて冗談でも考えてはいないだろうけど。
背中からずれた風呂敷包みの位置を直して、九丁目は続ける。
「それは分からないですけど。そういう塩梅だから、私たちは二人一組で丁度良いのだって」
「技は盗むものだからな。俺と組んでいさえすりゃあ、たとえ五流、いや四.五流の忍者でも、いずれ自ずと一流の技が身に付くというもんだ。お前は運がいい」
「そうですよ」
いつものように受け流さないでにわかに体ごと向き直った九丁目に、玉三郎がいつにもなくたじろいだ。
その傷だらけの顔にぐいと詰め寄る。
「私はね、あなたが思っているよりずっと、あなたを頼りにしてるんです。だから、敵に捕まったり怪我をされては、私が困ります。もっと言動に気を付けて下さい!」
言い募る九丁目の迫力に気圧されて、玉三郎がじりじりと後退る。
その時、突然差し向けられた明かりが二人を照らし出した。
追手、と緊張したのは一瞬だった。その一瞬に玉三郎が懐の中で苦無を掴んだのが目の端に見え、慌ててそれに倣う。
「どうしたあ、喧嘩かあ?」
呑気な問いかけを訝しみ光の向こうに目を凝らすと、そこにいるのは数人の村の男だった。二年参りの道中に寒さしのぎの燗酒でも引っ掛けたのか、誰もが一杯機嫌で気分の良さそうな顔をしている。
玉三郎はちらりと九丁目を目顔で制し、提灯をさげた先頭の男に向かって首を振った。
「何でもない。構わんでくれ」
「何でもないったって、あんたは傷だらけで、そんな大きい荷物を背負って、こんな村の外れで、こそこそした様子で。怪しいなあ」
一人の男が言い、怪しい怪しいと皆が唱和する。
盗賊にでも間違えられては厄介だが、忍者だなんて言えないし、そうするとこの大荷物の説明が出来なくて、だからと言って蹴散らして逃げてはなお怪しい。鼻先に提灯を突き出された九丁目は首を縮め、どう言い抜けたものかと懸命に考える。
と、別の男が叫んだ。
「そうか! あんたたち、年が明ける前に夜逃げしようって手合いだな?」
さては借金踏み倒しか。いや屋敷の下人の脱走だ。見逃す見逃す、さあ逃げやれ、うまいこと逃げ切れよーと口々に言って、勝手に盛り上がる。
どっと肩の力が抜けた九丁目とは反対に、玉三郎は肩をいからせて一歩前へ出た。
「違うぞ。俺たちはオニタケ忍――」
名乗りかけた玉三郎に、勢いをつけて風呂敷包みもろとも九丁目が体当たりした。鞠のように弾き飛ばされる玉三郎を見て、箸が転んでもおかしい酔っ払いたちは爆笑する。気持ち良く響く笑い声に間延びした鐘の音が交じる。
「言動に気を付けてって言ったばかりでしょう!」
「まあまあ。仲違いはよしなよ」
「ほら、これあげるから、機嫌を直せ」
袖摺り合った御縁の餞別だと提灯を九丁目に握らせて、陽気な一団は勘違いしたままがやがやと去って行く。
半ば呆気に取られてその後姿を見送っていると、大分離れたところで最後尾の一人が振り返り、手を振って叫んだ。
「いろいろと頑張れよ! 良いお年を!」
「……ってる、つもりだよ」
釣られて手を振り返す九丁目の隣でへたり込んだまま、玉三郎がぼそりと言う。頬の傷を手のひらで押さえて呟いた声は小さく、もしかすると独り言だったのかもしれないが、九丁目は「知っていますよ」と返事をした。