「時は来たれり」
鼻先をつと赤い線が横切って、牧之介は握り飯にかぶりつこうとしていた口を思わず止めた。
透明な空気に朱を刻み込もうとでもするかのように、細長いトンボはすうっ、すうっと、少し飛んでは空中に止まって羽根を震わせる。
「そうか……、もう秋かぁ……」
牧之介は握り飯を一口頬張り、ゆっくり噛み締めながら、誰にともなく呟いた。
空は突き抜けて高く青い。その真ん中で、蜜柑色の太陽は今日もぎらぎらと頑張っている。街道沿いに植えられた松の木の、太い枝が作る濃い影は、まだまだささやかな避暑地の役目を担っている。
もぐもぐと口の中の飯を噛む。そのたびごと歯に当たるのは、口が曲がるほど酸っぱい梅干の種だ。
夏の盛りに持ち歩く握り飯の中味は、梅干と決めていた。
疲労を回復し暑気負けしない身体を作り尚且つ飯の傷みを防ぐこともできる、なんとも合理的ではないかと、食事のたび己の叡智に感心しつつ竹皮包みを開いていた。今日も今日とて4つの握り飯は全て梅干入りだったが、そう言えば3つ目を平らげた時、ちらりと「ちょっと飽きたな」と思ったっけ。
「……時が流れるのは、早いもんだなぁ」
雪が溶け、草木が芽吹き、桜が咲いて散り、梅雨が来て、明けて、永遠とも思われるような猛暑が続いて……それでもやがて季節は替わる。
最後のひとつを腹に収めると、牧之介はポンと勢いをつけて床机から立ち上がった。
「よしっ、これから忍術学園へ行くとするか!」
時が移れば移っただけ、諸国一の剣豪になる日は確実に近付いてくる。まずは手始めに永遠にして最大のライバルの打倒だ。
今日こそは。
そうだ。今日、この佳き日のために、今までがあったのに違いないのだ。
「おばちゃーん、握り飯、持ち帰りで4つね! 中味は葉唐辛子の佃煮で!」
茶店の奥に向かって叫び、牧之介は意気揚々と傍らの刀を手挟んだ。
「おや戸部先生、そんなに急いでどちらへ」
「東から物の怪の気配がする」
「物の怪?」
「よってわたしは南西へ出かける」
「へ?」
「後は任せた、半助」
深く被った笠の下から、一瞬眩しげに蒼天を見上げた戸部は、それだけ言い残して足早に道の向こうへ消えて行った。