「狙撃手の憂鬱」


 二箇所で同時に銃火が閃いた。

 重なる轟音に紛れて「きゃあ」と間の抜けた悲鳴が上がり、指の先ほどの節穴が空いている板塀の向こう側で、人が何人かまとめて滑り落ちる音がした。程無くして、泡を食って右往左往する慌ただしい気配と、痛い重い早くどけと文句を言い合うひそひそ声とが暗闇の中を流れてくるのを確認して、僧坊の屋根に腹這っていた利吉はゆっくり身を起こした。

「抜けたのはわしの弾だな」

 利吉と平行の位置にある大楠から地面へ飛び降りた山田は、夜空を映す暗い池をよけて回り込みながら、しかめっ面の息子を見上げてわざと得意気な顔をした。
 我知らず一瞬ぷっと頬をふくらませた利吉は、子供っぽく胸をそらしてみせる父から顔を背け、節穴をわずかに削って羽目板を貫いた自分の弾痕を睨んだ。そうしている間に小さな影がばらばらと境内へ駆け込んで来て、やや興奮した様子で、しかし声は出さずに板塀の方を指差したり、走って逃げ出す振りをしたり、ただやたらに飛び跳ねたりし始める。
 その影のひとつの頭をぽんと叩いて山田が言う。
「もう喋っていいぞ。よくやったな、お前たち」
「ドクタケ忍者隊はお寺に忍び込むのを諦めて、みんな逃げちゃいました!」
 そう報告したのは虎若だ。撃退成功にはしゃぐ一年は組の面々の中でも、夜目にも分かるくらい一際目をキラキラさせて、頭に手を置く山田と火縄銃を担いで屋根から降りた利吉を交互に見ている。
 火縄を始末する振りをして利吉は憧憬に満ちた虎若の視線を避けた。
 輪を遠巻きに佇むそんな利吉のもとへ子供たちは何の頓着もなく駆け寄り、くるくるとまとわりつきながら、競って褒め言葉を口にする。
「すっごぉい、さすが山田先生と利吉さん!」
「こんなに暗い中で、塀越しに縄を撃ち抜くなんて」
「ドクタケ忍者隊ってば、いきなり鉤縄が切れて大慌てでしたよお」
「……そうかい」
 無邪気な賛辞が面映ゆいと言うより、今は苦い。利吉は努力して笑顔を作り、「みんなもご苦労さま」と、目を合わせないようにしながら子供たちを労った。


 高台に位置するこの古い寺には、昔の有名な軍略家が書き遺した必勝の秘計が隠されている――という噂に、根拠は無いこともないらしい。
 なんでもその軍略家の側室が生んだ子がこの寺で出家していて、その子への餞別に軍略家が贈ったという書物は、確かに現存するという。だが、学園長の旧知である住職が言うには、それは本の体裁をした「幼児用いろは練習帳」で、たどたどしくも微笑ましい文字の書き取り練習と、それに朱を入れた跡があるばかりの代物なのだそうだ。
 それをご苦労にも盗みに入るつもりのようだと住職から忍術学園に応援要請が入り、たまたま居合わせていた利吉も、否応なく巻き込まれた。日没に紛れて寺に入った一年は組があちこちに布陣するのを待っていたかのように、水の口から、床下から、堂々と山門から、ドクタケ忍者たちは次々と侵入を試み、その都度忍たまたちが叩き返す展開が深夜に至るまで続いた。
 が、それは陽動に過ぎなかった。目立つ場所で大騒ぎを起こしているその隙に、本隊でもある別働隊は、寺の裏手から石垣を登ってこっそり忍び込もうとしていたのだ。

 だがしかし、しつこく繰り返されるもぐら叩きが陽動であることなど、とっくにお見通しだった。

 今夜は星が出ている。鉤縄を火縄銃で断ち落とすくらい、火をともせなくても星明かりがあれば十分だ。向こう側に標的がある板塀に矢狭間や銃眼はないが、節穴があるならそこに弾丸を通せばいい。――その自信はあった、のに。
 悔しい。
「なんちゅう顔をしとる」
「うわっ」
 いつの間にか子供たちは別の場所から帰って来た土井の方へ移動し、替わって目の前に山田が立っているのに気が付いて、利吉は思わず体を引いた。そのまま視線を泳がせる利吉を面白そうに眺めつつ山田は顎を撫でる。
「お前は要らないと言ったが、主副配置にして正解だったな」
「……はい。慢心していました」
「おや、素直だ」
「私は父上に比べ、まだまだ鍛錬が足りないようです」
「そりゃ、わしとお前とでは年季が違う。やすやすと追いつかれてはたまらんわ」
「それはそうですけど、……ああ、ちょうど今夜だ。もしも、」
 ため息混じりに口にしかけた思い付きがあまりに子供っぽいことに寸前で気付き、続きを飲み込んで、父のからかい顔を視界の端に追いやって利吉は星空を仰ぐ。

 そこの池に映った星明かりを頼りにあの節穴に弾丸を撃ち通すことが出来たら、女の子が針に糸を通して裁縫の上達を願うように、織姫の御加護で父上との技量の差が少しでも縮まったり……しないだろうか。
 しないよな。
 確かに縄は撃ち抜いた。でも狙った節穴は外した。縄を断つという目的は達したのだから良し、と考えられないのはまさに「拘り」かもしれないが、しかしそれを無くしたら物事に上達はない。
 人頼みでは駄目だ。己の心身を以て日々精進あるのみ、だ。

「そう言えば、父上。母上から言付けです。次の休みには是非とも家へお帰り下さいますように、と」
「うーむ……そうは言っても、色々とやらなくちゃならんことがあるからなぁ」
「それと、父上が家を空けている間に、お陰様で今まで以上に手裏剣打ちの腕が上がりました――とも」
「む」
 聞き流す態度を即座に引っ込めた山田は深刻な表情で腕を組み、時々ひとつふたつと指を折りながら、何事か熟考し始める。
 ひどく真剣な父の顔を横目にするうち、ふと諧謔が口をついた。
「天帝の怒りを買ったわけでもないのに、年中離ればなれ」
「ん? ああ――、少なくとも織姫は久々に会う彦星に向かって、張飛ばりに蛇矛を振り回したりはせんだろう」
 うちの織姫はおっかないんだ、と苦笑いで山田がぼやく。
 ちょっと年のいった織姫がちょっと年のいった彦星の鼻先に蛇矛を突き付けてにっこり微笑む光景を想像し、利吉はそれを笑っていいものか同情すればいいのか、少し迷った。