「いざ、尋常に」


「勝負だ、こらぁ!」
「おお、望むところだぁ!」

 ゆるやかに吹く皐月の風と一緒に、その清々しさをかき消す遠慮のない大声が、窓から飛び込んだ。
 外を覗いて確認するまでもない。ほとんど毎日の恒例行事のような会計委員長と用具委員長の喧嘩だ。図書室にいた生徒は誰も驚きもせず、平然と聞き流している。
 が、机の上にいくつも本を広げて調べ物をしていた四郎兵衛は、筆を持つ手をぴたりと止めた。
 書棚の本を整理していた久作はそれに気が付き、四郎兵衛にそっと近づいて、委員長の耳をはばかりながら小声で尋ねる。
「うるさかったら、窓、閉めようか」
「ん? あ、そうじゃないんだ。――あのさ、これ何て読むんだっけ?」
「どれ?」
 四郎兵衛の周りに開きっぱなしのまま置かれた本はどれも、福原とか伊豆とか鎌倉とか、源某、平某とかの文字が見える。は組は歴史のレポート課題でもあるのかなと思いながら、久作は四郎兵衛が指さした所を覗き込んだ。
「ナオタケ、じゃなかったよね……」
 この時代には尚武の気風が――と言う文章を指で押さえ、自信なさそうに四郎兵衛が言う。
 そう読んだか、と久作はちょっと笑った。勿論、声は出さない。
「人の名前じゃないんだから。ショウブだよ、ショウブ」
 つまり勇ましいのが偉いってこと。
 久作が続けてそう説明すると、感心したように丸い目をますます丸くした四郎兵衛は、音を立てずにポンと手を打った。


 窓のそばの机で頭を寄せ合う二年生を見て、きり丸は隣にいる長次をこっそりうかがった。
 委員長に動く気配はない。
 ほっとして、新しく買い入れた本に学園印を押す作業に戻る。
 実際、ひそひそと話している久作と四郎兵衛よりも、窓の外で馬鹿野郎この野郎と罵り合う声のほうが余程やかましい。委員長にも聞こえていないはずはないが、「図書室の中では」静かに、の規則が守られていれば、外野がいくら騒がしかろうと別に気にしないらしい。
 これで最後と手に取った一冊は、兵法書や戦記の本とは全く雰囲気の違う、女の子の着物に似た明るく華やかな表紙が付いていた。
 題名には『かさね色目図鑑・最新フルカラー版』とある。ハンコを押しちゃうのがもったいないな、と思ったきり丸はひとまず印章を脇に置き、パラパラと図鑑をめくってみた。
「きれいだな、これ……」
 つい呟いたきり丸を、長次がちらっと見る。
 墨や顔料の匂いが香り立つ図鑑には、季節や行事に合わせた着物の色の組み合わせが沢山紹介されていて、目に鮮やかな色彩や響きの良い名前の数々は、眺めているだけでもわくわくする。
 今の時期は何があるんだろうと何気なく初夏の項を引いたきり丸は、ちょっと首をかしげた。
 緑っぽい青と紅梅色の組み合わせ。その名称は「菖蒲」とある。
 ほのぼのあったかくて、そのくせ妙に涼しげな感じもして、確かに初夏っぽい。でも、なんで菖蒲って言う名前なんだ? 青い花が咲くんじゃないっけ?
「――それは、菖蒲の、」
「!」
「葉と、根を、表している」
 もそもそと言い終えた長次が再び前を向く。
 きり丸はそろりと横を向いて、心臓が飛び出しそうになった口を押さえる。
 その視線の先で静かに出入口の戸が動いた。細く開いた引き戸の向こうにはしんべヱがいて、きり丸と目が合うと、いつも以上のニコニコ顔でおいでおいでをする。
 委員長に断って持ち場を離れたきり丸は廊下へ出て後ろ手に引き戸を閉め、ふーっと肩の力を抜いた。
「どしたの、きり丸」
「ちょっと恐怖体験がな。しんべヱこそ、どうしたんだ?」
「僕、お知らせ係なんだ。あのね、食堂のおばちゃんが、お節句のちまきができたから取りに来なさいって。早くしないとなくなっちゃうかもよ?」
「……図書室の中では飲食禁止。外で食べて来るのは、いい」
 突然音もなく開いた戸から長次がヌッと顔を出した。それをまともに見たしんべヱは声も出せずに絶叫して飛び上がり、きり丸は今度こそ、自分の心臓の在り処を見失った。


 籠いっぱいに刈り取って来たヨモギを筵(むしろ)に広げて選り分けていた数馬が、ふと顔を上げた。
「なんだか、いい匂いがする」
「へ?」
 延々葉を摘みまくって緑色になった指をこすり合わせ、左近はスンスンと辺りの空気を嗅ぐ。
「ちょっと甘いような、青いような感じ。分かる?」
「ダメです。ヨモギの匂いで鼻が馬鹿になっちゃって」
「それ、菖蒲根の匂いです~」
 新野と一緒にゴリゴリと何かをすりおろしていた伏木蔵が、ほらと二人に鉢を向けた。
 ほんのりと甘く涼やかな香りがふわっと辺りに広がる。
「打ち身の薬だよ。もうすぐ必要になるからね」
 そう言って新野が苦笑し、数馬と左近は「ああ」と納得した。
 外から聞こえる文次郎と留三郎の喧嘩は、怒鳴り合いからど突き合いに移行してしばらく経っている。様子を見て来ると言って少し前に出て行った伊作はまだ戻らない。どういう訳か元気のないしんべヱがお知らせに来て、おやつにしようとみんなの分のちまきを貰いに食堂へ行った乱太郎も――
「あ、帰って来た」
 伏木蔵が嬉しそうな顔をした。
 パタパタと軽い、踊るように楽しげな足音が廊下を走って来る。
「危ないな」
 足音を耳にした数馬がそう呟くのと同時に、ぱん、といい音を立てて引き戸が開いた。
「ちゃんと全員分、ちまき貰えましたぁぁきゃあぁぁっ」
 勢い良く笑顔で飛び込んで来た乱太郎は、勢い良く敷居につまずいた。腕に抱えていたちまきが空を飛び、左近と数馬の頭の上と、ヨモギの山にバラバラと落下する。
「乱太郎? 大丈夫?」
「だいじょうぶ。慣れてるもん。先輩、すみません」
「平気平気、なんともないって」
 めげずに起き上がった乱太郎はふにゃっと笑って伏木蔵に答え、上級生たちにぺこりと頭を下げた。眼鏡が無傷なのは凄いが、丸く赤くなった額が痛々しい。
「さっそく菖蒲根が役に立つね」
 乱太郎を呼び寄せた新野が額に薬をすり込んでいるのを横目に、左近はこそっと数馬に尋ねる。
「こうなるのが不運委員のお約束だから"危ない"……ですか?」
「いや、慌てる子供はローカで転ぶから"危ない"のつもりだったんだけど」
 ……やっぱり、みんなまとめて不運かな。
 髪に刺さったちまきを抜き、何か悟ったような顔をして数馬が呟く。返事に困った左近は曖昧に視線を泳がせていたが、ふと気が付いた。
「外、少し静かになりましたね」
 地上に落ちた雷神同士の一騎打ちかと思うような派手な音はいつの間にか止み、代わりに何か話している声が聞こえる。しかしまだ決着がついていないのか、荒っぽい調子の声は次第に刺々しさと鋭さを増し、一往復ごとに大きく激しくなっていく。
 だから、いい加減にしろって! と言う伊作の大声がそこへ割って入った。
「その勝負は僕が一旦預かる、だから二人とも医務室へ」
 行け! と続くべき所で、鈍くて重い音がほぼ同時に二回した。

「クロスカウンター?」
「――の、打ち合い」
「に、伊作先輩が挟まれたみたい。……不運」
「すごいスリルー」
「いやいや、龍虎相撃の間に入る善法寺くんの勇気は偉いですよ」

 薬や湿布を一人前追加して、新野の指導で治療の準備に取り掛かる。てきぱき動き回るその間、拾い集めて笊に入れたちまきは、棚の上にしっかり避難させておく。
「ちまきを食べれば、邪気を祓うついでに不運も祓ってくれるかな?」
「……だといいよね。本当に」
「あんまり期待しないで期待しておこう」
「おやつの時間、あるかなぁ」
 
 諍う声は遠ざかっていく雷鳴のように徐々に荒々しさを鎮め、そよ吹く風に乗って、戸を開け放した医務室の中へ届いた。