「下しゃんせ、クダシャンセ」


 町に入った時から何となく視線を感じていた。
 身ごなしには十分気をつけていたが、どこかに潜むご同業に看破されたらしい。
 都の乾(いぬい)に位置するこの地は人や物の出入りが多い。ずらりと軒を連ねる店先には目に楽しく珍しい品々や近隣各地の特産品があれこれ並び、目抜き通りは今もそれを眺め冷やかしそぞろ歩く人々や呼び込みの商人、今夜の宿を探す旅人、特に目的の無さそうな者たちまで雑多に行き交って賑やかだ。
 平和に買い物や見物を楽しむ人波に紛れて流され歩きながら、だから、そうと気付いてなお高をくくっていた。
 人の数だけ人の目がある。こんな目立つ場所で――まさかだろ。
 だが、「まさか」は動いた。


 息せき切って通りを駆け抜け、建ち並ぶ町家の奥へ奥へと何度も路地を曲がっては背後を振り返り、その何度目かに飛び込んだ先は袋小路のどん詰まりだった。
 右も左も正面にも壁がそびえ立ち、その上にぽかりと底が抜けたような青い空が広がっている。
 つんのめって足を止め、引き返す暇もなく、慌てて懐から鉤縄を掴み出す。
 しゃにむに鉤を掴んで振りかぶった。
「ぎゃっ」
 じいんと骨が軋むほどの痺れを手の中に残して、礫に打たれた鉤が弾け飛ぶ。
 同時に、音もなく静かに、密やかに――しかし心の臓を氷の手でじわりと握り締めるような威圧感をまとったひとの気配が、後ろへ立つのを感じた。
「お、お前は何者だっ」
 振り返りざま壁に背中を貼り付け、苦無を振りかざして吠える。
「知らなくてよい」
 驚くほどすぐ近くに立っていた無表情な男は、抑揚のない声でにべもない台詞を吐いた。
 行商人のなりをしているが、これと言った特徴のないのっぺりした顔には商人らしい愛想は欠片もなく、外見や声からは若いのか老けているのかさえも分からない。追い詰めた相手をひたと見据え、両手をゆったり左右に垂らして、ただ佇んでいる。
 この男もここまで走り通しに走ったはずだ。なのに、息ひとつ乱していない。
 それに気付いて、ぞっとした。背筋を駆け上がって来た震えが声になって口から飛び出す。
「俺が何をしたというのだ」
「それを、今から尋ねる」
 ひたり。
 男が一歩足を進める。
 逃げられない――分かっていても、身体は逃げようとする。固い壁板は背中や肘を無情に押し返し、足は無闇に土を掻く。冷たい汗がどっと吹き出し、それに衝かれて、得体の知れない追手に向かって口角泡を飛ばす。
「疚しいことは何もしていない。本当だ。書き付けは渡す、それに全身検めたて貰ったっていい。俺はただ、殿の言い付けで、ここの」
 必死の抗弁を耳に入れている様子のない男の瞳の色が、すっと薄くなった。
 更に一歩踏み出して無造作に上げた右手には、いつの間にか薄い刃が握られている。
 表情は変わらない。
 妙に肉感的な唇だけが別の生き物のように小さく動き、囁く。

「お前のその顔を私にくれ」

 今日限りお前にはもう必要ないのだから――


「……って事があった! 怖かった! むちゃくちゃ怖かった!」
 下ぶくれの頬を両手で挟み、悲鳴のような声で叫んで丹波出張の顛末を話し終えた霰鬼は、そのまま頭を抱えて卓上に突っ伏した。
 今日は現場仕事が無くのんびりした城中での昼休み、昼食後の駄弁りついでに何気なくこの前の出張の首尾を尋ねたドクタケ忍者隊の面々は、霰鬼の激烈な反応に呆気に取られて顔を見合わせた。
「でも、あれだ、こうやって無事に帰ってきたじゃない。そのピンチを切り抜けたんだろ? 丹波忍者相手にさ。それって凄いよ、なあ?」
 こっぴどいトラウマを植え付けられたらしい同僚をとりあえず慰めようと、霧鬼が明るい声を張り上げる。そうそう、と暁鬼が調子を合わせた。
「それに、顔、ちゃんと付いてるじゃん。怪我もしてないしさ。前と変わんない、霰鬼の顔のまんまだよ」
「……って」
 俯せたまま霰鬼がぼそっと呟いた。
「なんだ? どうやって逃げおおせたのか話してみろって。よっ、"退きの霰鬼"、格好いいっ」
 隣でお茶を注いでいた霞鬼がおどけ半分に肘をつつくと、ひどく篭もって聞き取りづらい声で、霰鬼はもう一度口を開いた。
「……調査メモ放り出しても退いてくれなくて、もうどうにもなんないからハラくくって、窮鼠猫を噛んでやると思ってグラサンを払いのけたら……、」
「ら?」
「……じーっと顔を見て、」

 ごめんやっぱり要らない。

 と言って踵を返し、メモだけ拾って無表情な丹波忍者はそのまま立ち去った。

「何なんだよもう……。殿のワガママでお正月用の栗きんとんと高級黒豆の相場を調べに行っただけなのに、意味なくビビらされるし、なんか馬鹿にされるし……、ねえ、俺の顔ってそんなにイケてない? ひと目で要らねって思うほどダメダメなの?」
 打ちひしがれた声で切々と自問する霰鬼は伏せていた顔を少し上げ、鼻毛なのかおしゃれヒゲなのか誰もが長年尋ねかねている鼻の下の長い毛を震わせて、同じ卓を囲む同僚たちを見回す。
 
 てんでに明後日の方向へ目を逸らした同僚たちは、ただ黙々と熱そうにお茶をすすっている。