「察した」


「七松先輩はもうお戻りですか?」
 借り出していた本を図書室へ抱えて来た滝夜叉丸が、思い出したように受付の長次へ尋ねた。
 返却された本の丁をぱらぱら繰っていた長次は、その質問に片方の眉を上げる。
「放課後は、一度も見ていない」
 委員会に行ったものと思っていたが、と呟き、長次は本の表紙を指先でひと撫でする。山野地形作図法と書かれた題簽の端が剥がれて、少しめくれている。書架へ戻す前に修繕しておこう。あとで糊を煮なければ。
「今日は野外活動ではなく、体育倉庫で備品目録の作成をしていたのです」
「会計委員会へ提出する……」
 丁の間に小さな埃が挟まっている。そっと取り除け、ふと、長屋の押入れの中で夜具の間に突っ込まれている破裂したバレーボールのことを思い出す。
「はい、それです。作業の途中で、委員長がちょっとそこまで行ってくると仰ってお出掛けになったので、そこで解散になりました」
「戻りは遅いかもしれない」
 何しろ小平太だ。「ちょっと」は往々にして「ちょっと」では済まない。
 控えめに苦笑する滝夜叉丸の鼻の頭と目の下が、うっすら日に焼けている。そう言えば昨日は学園の中で四年生を見掛けなかった。一日がかりの野外演習でもあったかと長次が考えているうち、するりと引き戸が開いた。
 喜八郎の顔が覗く。こちらも同じ位置を日焼けしている。喜八郎は受付机の前に座っている滝夜叉丸へすぐに目を留めて、踏み鋤を抱えていない方の手で手招きした。
「食満先輩が呼んでるから、来て」
「え、私? 今日は塹壕掘りをしていないのに」
「じゃなくて。昨日の実習で借りて行った水深計、用具倉庫へ戻す前にちゃんと洗ってよく乾かせって」
「それ、お前が言われたんだろ! 沼の深度を計測したのは喜八郎じゃないか」
「滝夜叉丸も水深計を使ったじゃない」
「使ったんじゃなくて、縄を伸ばしきって重くなったから、巻き上げるのを手伝ったんじゃないか!」
「静かに」
 長次の短い叱責に、申し訳ありませんと滝夜叉丸が頭を垂れる。
 そうか、四年生は地形測量をしたのか。
 忍術学園謹製の水深計は、丈夫な縄に一定間隔で結び目を作り先端に錘(おもり)を取り付けた、手回し式巻き取り装置になっている。縄が長いぶん大きくて重く、持ち運びや取り扱いは数人がかりになるが、その代わり沖に出た船の上から海底までも余裕で計れる。なのに、伸ばしきった、とは。
「そんなに深い沼があるとは知らなかった」
「えっ? ああ、はい、すい」
「地中深くにある水脈の上の地盤が、何かの理由で最近陥没したのだと思います。水はきれいなのに、覗いても見通せないくらい深くて、まるで底無しでした」
 ぼそりと言った長次へ滝夜叉丸が応じるより早く、喜八郎がすらすら答える。台詞を取られた級友にキッと睨まれてもお構いなしで、いつかあんな穴を掘りたいものですと、稀代の名画を目の当たりにした駆け出し絵師のような顔をする。
 ふくれっ面になった滝夜叉丸が腰を上げる。文句は言いつつ、水深計の掃除も手伝ってやるようだ。と、ふと長次に向き直り、殊勝げに眉を下げ声をひそめた。
「あの……七松先輩が戻られたら、定数不足の品の件で後ほど伺います、とお伝えいただけますか」
 長次は軽く片手を挙げて諾を示す。そして、ぺこりと頭を下げ図書室から出て行こうとする滝夜叉丸へ尋ねた。
「その、沼の話。小平太も知っているか」
「ええ。備品確認をしながら、皆で雑談をしていましたので」
 長次がうなずくと、滝夜叉丸はもう一度軽く会釈をして、喜八郎を小突きながら戸口の向こうへ姿を消す。それを見送り、本の点検作業に戻る前に、長次は少しのあいだ天井を仰いだ。

 ちょっとそこまで。
 ちょっと底まで。

 きっと小平太は、ずぶ濡れになって帰って来ることだろう。