「ぽかぽか」


 かまどの中からかき出した灰を箕に盛り上げ、それを抱えて食堂の裏へ出ると、低く雲が張り付いた空は一面のっぺりと白くくすんでいた。
 久作は身震いして頭の上を仰ぎ、はあっと靄のような息を吐いた。
「降るのかな。寒いし」
 呟いて、地面に掘られた灰捨てに箕の中身を放り込む。まだほの暖かい灰を手放した途端、しんと冷えた空気が身体に染み入って来るような気分になって、大急ぎで箕を置き灰捨てにかぶせる筵の蓋を抱え上げる。
 大きな重い木箱いっぱいの生ごみを捨てに行った三郎次と左近は、まだ帰らない。
 食堂の掃除当番は色々と役得があって、いつもならそんなに嫌じゃない。でも今日はおばちゃんが町へ鍋の新調に行っていて留守だから、開発中新メニューの試食も、残りご飯の味噌おにぎりもないのだ。
「早く帰って来いよー、もう」
 ごみ捨て場の方へ目をやり、筵を灰捨ての上に広げながら久作はひとりで文句を言う。
 その背中をトントンと誰かが叩いた。
「お前ら遅っ……うわっ! 先輩……いや、えっ、誰? 何これ?」
 振り返った久作はそこに級友ではなく、見慣れているのにひどい違和感をかき立てる顔がちょこんと佇んでいるのを見て、予想外過ぎる事態に言葉を失った。ぱくぱく口を開閉するばかりの久作へ向けるにんまりとした笑みさえも親しい先輩にそっくりなその顔は、うっすらと白粉をして紅を差し、小柄な身体には桃色のくの一の制服を着けている。
「どう、びっくりした? うまく作ったもんでしょ」
「その声はユキちゃん? 何やってんのさ。変装の上に化粧までして」
「決まってるじゃない。仕返しよ!」
 両手を腰に胸を反らして宣言するユキの後ろから、三郎次と左近、それにトモミがぞろぞろと現れた。呆気にとられる久作を小突いて三郎次がニヤニヤする。
「お前いま、すごい顔してたぞ」
「まあ、僕たちも驚かされたんだけど」
 明後日の方を向いて左近が小声で言う。制服にくっついていた野菜くずを払い落としているところを見ると、ごみ捨て場で何か大変な目に遭ったらしい。
「……何だか分かんないけど、僕は仕返しされる覚えはないぞ」
「違うわよ。標的はこの顔、鉢屋先輩よ!」
 だって鉢屋先輩ってば、いくらやめてって言っても、私の顔でがさつに振る舞うんだもの。だからその仕返しに、鉢屋先輩の顔でみんなの前でナヨナヨして、先輩にぎゃふんと言わせてやるのよ!
 自分の顔を指し、色気より覇気が全面にあふれるポーズを作りつつ息巻くユキの姿に、久作は目が点になった。
「本当にぎゃふんて言う人は見たことない……、と言うか、その顔で品を作られたらダメージが行くのは雷蔵先輩だ。図書委員会の僕の先輩だし、やめてくれ」
「あ」
 三郎と聞いたら大部分の人が思い浮かべる顔――雷蔵の顔に変装したユキと、三郎次、左近の声が重なった。それを眺め回し、ひとり冷静なトモミがクールに言う。
「誰が最初にそれを言うかなーと思ってたわ」
「トモミちゃん、なんで黙ってたのさ。変装するところから見てたんだろ」
「三郎次と左近こそなんで気付かないのよ。一年は組には威張ってるくせに、ダメねー」
「なんだよ、その言い方!」
「可愛くねーの」
「あんたたち相手に可愛気を発揮して何の得があるの?」
「そうよ、勿体ない」
「どっちも止せよ、アホらしい。……やめようよ、やめろってば、お前ら聞けぇ!」
 突っかかる三郎次と左近にトモミが言い返し、復讐計画が崩れたショックから回復したユキがそれに参戦し、早く掃除を終えて帰りたい久作が間に割って入り全員に無視されてあっさり切れる。止める者がいなくなるとますます勢いづいて互いにきゃんきゃんといがみ合い、その弾みで地面に置いた箕は蹴飛ばされ、半分広げてあった筵は灰捨ての中へ落ちて、白く軽いものが辺り一面にふわふわと舞い上がる。

「あれっ。私がいるよ」

 ぴたりと五人が静止した。
 恐る恐る素っ頓狂な声のした方に目を向けると、たまたま出くわした下級生のケンカを止めようか見守ろうか迷っていたのだろう、通りすがりらしい雷蔵本人が目を丸くして立っている。その少し前を歩いていた八左ヱ門は雷蔵の言葉にひょいと横を向き、ユキに目を留め一瞬驚いて、弾けるような明るい声を上げた。
「すげえ、女の子の雷蔵だ。へえ、巧いもんだなあ!」
「わあ、なんか変な感じだぁ。中身はユキちゃん?」
「おーい、三郎! 澄ましてないで見てみろよ。お前の変装よりカワイイぞ」
 三人の先頭にいた、くるくるした髪を高く結ってリボンを結んだ後ろ姿が、八左ヱ門に呼び掛けられてぶらぶら歩きの足を止める。顔を真赤にして立ちすくんでいたユキは、自分に良く似たその後頭部をキッと睨んで、八つ当たり半分に高い声をぶつけた。
「鉢屋先輩! 私の顔でその歩き方はやめて下さいって、前から言ってるじゃないですか!」
 肩越しに少し後ろを見た三郎が、長い髪を揺らして無言で振り向く。

 五年生の青い頭巾の内側にあったのは、でこぼこした白い玉に小石と枝の目鼻を付けた、雪だるまの顔だった。

「きゃあっ」
「ユキちゃんじゃないよ。ユキ降ったちゃんだよ」
 口も無いのにどこから声を出しているのか、悲鳴を上げるユキをよそに厳かに言って指さした空からは、灰に紛れてちらちらと雪が落ち始めている。
「何ですかそれ。わけ分かんないっ」
「……前から準備してらしたんですか、そのお面」
 地団駄を踏むユキと呆れるトモミを後に残し、三郎がけたけた笑いながら去って行く。一緒に置いて行かれた雷蔵と八左ヱ門は苦笑いで口々に取りなした。
「ごめんね。三郎のやつ、雪が積もるのが楽しみで浮かれてるんだ」
「今度あいつに会ったら蹴り入れていいよ。俺が許す」
 二人の級友にくの一たちの宥め役を押し付けた三郎はしかし、いくらも進まないうちにすたすたと戻って来た。雷蔵の顔でふくれっ面をするユキの前に立ち、無表情な雪だるまの顔で向かい合う。

「忘れていた。ぎゃふん」

 顔を見合わせて忍び笑いしていた二年い組が堪え切れずに大声で笑い出すと、その中心めがけて箕が高速で突っ込んで来た。