「笑って」


 鷲掴みにされた手首が痛い。
 そのままでぐいぐい歩いて行く、その歩調が早過ぎる。
 どうしてこんな扱いを、と文句のひとつも言いたいが、思い当たることは沢山あって、網問は黙って引きずられる。
 大体が無口な男だ。前を行く東南風の背中へ何か言葉をぶつけたところで一言以上の返事は期待できないし、口をきくことさえ、今はためらわれた。

 朝、目が覚めた時から、なんだか嫌な感じがした。
 最初は朝食の後。洗っていた茶碗を立て続けに割った。
 そのあと船戦の訓練で櫓を海に流し、火薬壷まるごとひとつを水に浸した。航海日誌をつけている最中には4頁分を反故にした。
 昼を過ぎて洗濯物を干している最中、プツンと吊り紐が切れ、洗い立ての着物や袴や下帯がどさどさと振って来るのを目にした時、網問は自分の中にある何かがぽっきり折れたのを感じた。

 何をしても裏目、裏目。巡り合わせの糸が絡まっちゃったのかな。ほどけなかったら、切るしかない?

 ちっとも可笑しくないのに、そんなことを考えるとなんだか笑い出したいくらいで、地面に落ちたものをのろのろと拾い集めていたら、いつの間にか東南風が近くに立っていた。
「おかしらには、許しを貰ったから」
 それだけ言って網問の腕を掴んだ。
「あの、洗濯が、」
 弱い抗議に、振り返りもしない。

 それだから、むっとするような草いきれの中、水軍館を出てからずっと2人とも黙っている。
 見晴らしのいい高台の突端まで来て足を緩めると、ようやく東南風は手を離した。
「凄い」
 目に飛び込んだ風景に、網問は思わず呟く。
 眼下は一面、木々の緑が濃淡をなす広大な森。それより向こうにもっと大きく広がる海は、途中で空と溶け合いながら、ずっと遠くまで抜けるように青い。その青を思い切って圧するのは、天の底を抜いてしまいそうに立ち上がる真っ白な入道雲だ。
「夏の名残だよ」
 東南風がぼそりと言う。
「名残……ですか」
 夏の風物詩は、まだまだこんなに威容を誇っているというのに。
 言いながら振り返ると、東南風は山のような雲にじっと目を向けたまま、網問に聞かせるつもりがあるのかないのか、低い声で訥々と言葉を並べる。
「夏は――夏だけじゃないが――ずっとこのまま居続けることは、できない。そのうち秋になって、いずれ雪が降って、――だんだんに変わる。人の手でどうにかしようとして、なるものじゃない。季節ってやつは」
 網問の表情に気付いて、東南風は急にそっぽを向いた。喋り過ぎたと頭を掻き、そのまま腕を伸ばして大きな手でぽんと網問の背中を叩く。
 雲は少しずつ形を変えながら、むくむくと動いている。

 背中を押された分だけ、明日は今日と違う日になるだろうか。

 雲を眺めながら、網問はきゅっと拳を握った。