「ビョーキ志願」


 今日は素直に入門表にサインをしたと言うのに、この時間帯は暇なんだという小松田に捕まり、ひとしきり世間話らしいものに付き合って、ようやく利吉は忍術学園内に踏み込んだ。
 帰りは塀を乗り越えて行ってやろうかと考えながら、ぶらぶらと天気のいい校庭を歩く。
 まだ午前中の授業時間だ。父も部屋にはいないだろう。まあ、突然来たのは自分なのだから、文句を言えるものではない。
 請け負っていた仕事が思ったより早く片付き、家に帰る前に少し顔を出そうと立ち寄った。早く帰らねばまた母が機嫌を損ねることは重々承知しているが、殺伐とした任務の後にこののんびりとした空気を嗅ぎに来るのを、利吉は結構気に入っていた。
 食堂でお茶でも飲んでいようか。そう思ってそちらへ足を向けると、手前の植物園の中で一年は組の生徒たちが散開し、這いずり回っているのに気がついた。
「なんだ?」
 思わず呟いたその時、ネムノキの向こう側で叫び声が上がる。
「こらぁ! 木の実を勝手に食べるんじゃない、そのままでは毒になるものもあるんだぞ!」
 土井の声だ。
 本草学の実習かな。それともただの植物観察。そう考えながら様子を窺っていると、誰かが「あ、利吉さん!」と大声を出した。
「こんにちは」
「こんにちはぁ」
「こんにちはっ」
 木の上、草の間、土の中、あちらこちらからは組の生徒たちが顔を出して口々に挨拶をしてくる。
「やあ。久しぶ……」
 挨拶を返そうとすると、突然視界に何かが高速で突っ込んで来た。
「うわっ」
「ひゃあぁ!」
 反射的に抱き止めたが勢いを完全に殺せず、腕の中のものと一緒にもんどり打って地面に転がる。
「しんべヱ! 伊助!」
「利吉さん!」
 土井と子供たちが慌てて飛んでくる。
 やれやれと懐を見下ろすと、しんべヱと伊助が、千切れたツタを体に絡ませて目を回していた。どうやらカラスウリを取ろうとしてツタを掴み、それが2人分の重量を支えきれずに滑空した挙句切れたらしい。
 駆けつけた土井は2人をざっと観察し、怪我のないことを確かめると、利吉に向かって申し訳なさそうに微笑んだ。
「すまないね、毎度毎度。君は大丈夫かい」
「はあ、先生に比べれば」
 つるりと口が滑る。一瞬、え?という表情をした土井は、今度は苦笑して胃の辺りに手をやった。
「とにかくしんべヱたちを保健室に運ばないと。利吉くんも一応、新野先生に見てもらって」
「わたしならご心配なく」
「でも、念のために、ね」
 は組の中でも重量級の2人の体重に加え、加速もついているのをもろに受けている。大人しく従うことにして、利吉は身軽に立ち上がるとポンポンと埃を払った。
「わたしと乱太郎で連れて行くから、みんなは教室に戻って観察したものをまとめていなさい」
「いつまでに提出ですか?」
「宿題にしよう。明日の朝に集めるから、忘れたらプリント追加だ」
 えー、と一斉に不満の声が上がる。
「ひどい、それって職権濫用ですよぉ」
「え、食券乱用?」
「側近残業でしょ?」
「あれ、即金産業だっけ?」
「ゾーキン塹壕じゃない?」
「象さんサンキュー?」
「職権濫用、だっ。ちなみにこういう場合は使わないっ」
 放っておくとどこまでも転がっていく会話を強引に断ち切り、土井は子供たちを追い立てた。

「……あ、乱太郎まで追い返しちゃった。しまったなあ」
 辺りが静けさを取り戻した後に気づいて、頭を掻きながら独りごち、土井はしんべヱと伊助をヒョイと左右の肩に担いだ。
 眠っている子どもは重い。
 利吉はすりむいた肘をさすりながら、ぶつぶつと愚痴めいたことを呟く土井に向かって言った。
「わたしよりも土井先生の方が先かもしれないですね」
「え? 何が?」
「過労死」
「……は組がうつったか、利吉くん」
「冗談ですよ」
 さらりと言うと、土井がなんだか複雑そうな顔をした。

 うつってみたい気が、しないでもない。
 そのあと完治する保証があるならの話だが。