「不幸中の幸い」
「学名はパナエオルス・パピリオナセウス。早春から秋にかけて発生する」
「先輩」
「傘の形は成長に応じて変化して、幼菌時は円錐の釣鐘型。成長すると直径2寸ほどのまんじゅう型に開き、時に尖った小突起がある。表面には不規則なひび割れができ、縁にヒダを持つ」
「先輩」
「丈は1寸7分から2寸7分、胞子は黒く、馬糞などに生える」
「せーんーぱーいー」
「それから」
足踏みする乱太郎に向かって、伊作はニッコリと付け加えた。
「旨くはないようだ」
「古今東西、旨くないものを旨く食う方法なんぞ幾らでもある」
板張りの床の上、片膝立てて胡坐をかいた文次郎が、無造作な口調で言う。その口の端がぴくぴくと断続的に引きつっているのに気づいた伏木蔵がさりげなく乱太郎の陰に隠れてしまい、矢面に立った乱太郎は仕方なくへらりと愛想笑いを浮かべた。
文次郎は横を向いて衝立の後ろの気配にちょっと耳を澄ませ、そのままぎょろりと目だけをおびえる下級生に向けた。
「イナゴなんぞいい例だ。生のままでは食えたもんじゃないが、乾煎りして飴炊きにでもしちまえば十分食える」
「ああ、イナゴはいいな。乾燥重量の6割8分がたんぱく質で、脂肪も4分含んでいるから、いい栄養源になるんだ」
にこにこと伊作が言うと、文次郎はケッと言うような声を上げて、立てていた膝をばたんと倒した。そのままひと膝乗り出し伊作の鼻先に向かって指を突きつける。
「とにかく、あれを、とっとと何とかしろ」
「ここに来たのはお前の方が後だよ」
「怪我人が保健室に来て何の問題がある」
石火矢の演習中、はねた火種で手の甲にやけどをしたのだ。幸い軽傷ではあったが、腫れが引くまで冷やすための氷は今、左近が氷室へ取りに走っている。
左近先輩、今頃どこかで足踏みしてるんじゃないかなと、乱太郎は曖昧な笑みを顔に貼り付けたまま考えた。潮江先輩をあんまり待たせると面倒臭い事になる。でも、今、保健室に戻って来るのは嫌だろうなぁ……。
「不運委員めらが。保健室には不運が吹き溜まってんのか」
俺にまでうつすな。そう吐き捨て、文次郎は尻の下に敷いていた円座を引っこ抜き、頭からばさりと被った。
なにやら陽気になった和尚が地面の下で鐘を打ち鳴らしているような、突如狂言に目覚めた牛が謡を練習しているような、石臼の間で何か得体の知れないぶにゃぶにゃしたものがひき潰されているような、なんとも形容し難い声――むしろ音が、さっきからずっと保健室に鳴り響いている。
音源は衝立の向こう。一間しかない保健室では患者を隔離することもできず、とりあえずそこに隠してある。
何も知らずに訪れた人が、衝撃的な光景でショック死しないように。
「中在家先輩ともあろう方が、なんでワライタケなんか食べちゃったんです?」
本草図鑑をめくる伊作に、疲れた声で乱太郎が尋ねると、伊作は「困ったもんだ」と眉を下げた。
「野戦訓練の前に、きり丸が弁当を売りに来たんだけどね」
野草を炊き込んだご飯の握り飯を買ったのは、図書委員のよしみで押し付けられた長次だけだった。
「……材料にタダのものばっか使うから。……あとで文句言ってやる」
「善法寺先輩、それで解毒方法は?」
「ないんだこれが。神経系に作用した毒が消えるまで、まあ、長くても10時間くらいかな」
「10時間!?」
「気がつかなかった長次も長次だね。でも、後遺症の出るような毒じゃないから、心配はいらないよ」
笑顔の伊作、よどんだ表情の乱太郎と伏木蔵、しかめっ面を円座に隠した文次郎。4通りの顔の上を、異様な音だけが通り過ぎていく。
これがあと10時間。
「来たのが潮江先輩で良かったね」
保健室の戸を開けた途端、やかましいと怒鳴って衝立を蹴倒すのもあの人くらいのものだけど。
しみじみと言う伏木蔵に、乱太郎は大いに同意した。