「お足元にご注意ください」


 喜八郎は機嫌が悪かった。
 しかしその文句を伊作が言われたのはただの偶然で、言い換えれば例によって例のごとく伊作の不運だった。


 愛用の踏鋤を肩にもたせかけ、きっちりと膝を揃えて正座した喜八郎が眉を逆立てる。
「あのですねえ。大概にしていただきたいのですよ」
 掘りかけの穴に墜落する途中でどこかにぶつけた腰を抑えて苦悶していた伊作は、それに釣られて思わず居住まいを正した。狭い穴の中で膝を接して喜八郎と向き合い、申し訳なさそうに眉を下げる。
「穴掘りの邪魔をしてすまない。……でも、今日はまだ一回目だよ」
「私は十回目なんです。善法寺先輩で」
 重々しく頷き、それから横に首を振った喜八郎が憤ろし気な声を出す。
 さり気なく置いた小石や木の葉の合図を迂闊にも見落とした人が、完成作の落とし穴に落ちるのはいい。それが目的なんだから、むしろ「してやったり」だ。
 しかし制作中のところに落ちて来られるのは困る。困るというより迷惑だ。地上に口を開ける穴のふちは崩れ、微妙な角度を付けた内側の壁は削られ、何よりも全体の釣り合いが壊れて、折角の美しい穴が台無しになってしまうんだから。
「美しい穴」
 耳慣れない言葉に思わず伊作が繰り返す。
 じろりと三白眼をした喜八郎は、片手をまっすぐ上へ伸ばした。瓶子の胴のような、少しくびれた形に整えられていた内壁の一部が無残に欠け落ちているのを、無言で指差す。
「……腰をぶつけたのはあそこか」
 見上げた伊作が納得していると、喜八郎は下ろした手でパンといい音を立てて自分の膝を叩いた。
「今日はみんなぼんやりがひどいです」
 下級生も上級生も。地面の上に大穴が開いているのなんて、特別気を付けなくたってひと目で分かるのに。

 一人目、二人目は、少しムッとしたけれど、間が悪かったのだろうと受け流した。
 三人目が落ちた後には、こう何回もお釈迦にされてはたまらないと穴の側に目印の枝を立てた。
 四人目が落ちて来た。目印の枝を増やした。
 五人目が落ちて来た。枝をもっと増やした。
 六人目が落ちて来た。穴を囲んで立てた枝に縄を張った。
 七人目が落ちて来た。太い縄に代えた。
 八人目が落ちて来た。縄を上下二段に張った。
 九人目が落ちて来た。縄に派手な色の手拭いをぶら下げた。

 でも、十人目が落ちて来た。

 瞬かない目でじいっと見据えられて、伊作は首を縮めた。
「それじゃ綾部は今日、放課後はずっと穴の中?」
 亀のようになったまま尋ねると、今さら何を言うのかという顔で喜八郎は「はい」と答えた。踏鋤を振るって穴掘りに励むのは、誰もが知っている喜八郎の日課だ。
「じゃあ、あれは見ていないんだ」
「あれって何です」
 ぶすっとして喜八郎が尋ねる。不機嫌な四年生に、伊作は不遜にならない程度にやんわりと微笑みかけた。
「ちょっと外に出て見てごらんよ」
「取っ掛かりが壊れたから簡単に上がれません」
「それなら、ほら」
 立ち上がった伊作は壁に背中を付けて中腰になり、開いた膝の間で両手を組んだ。
 要領を得ない様子のまま喜八郎は躊躇なくそこへ片足をかける。伊作が踏み台の手をぽんと跳ね上げ、それと同時に飛び上がった喜八郎は手を伸ばして穴の縁を掴み、外へぐいっと身を乗り出した。

「おや、まぁ」

 虎、竜、獅子、大魚、何だかよく分からない強そうなものやめでたそうなもの、定番から初めて見るものまで大小様々な数々の紋。目もあやな彩りの大幟に元気いっぱいの筆致で描かれたそれらが、青く晴れ渡る空を背景に、あちらこちらで高々と翻っている。
 旗竿から旗竿へ掛け回された紐に下がってのどかに揺れているのは、これもまた色とりどりの華やかな薬玉だ。
「下級生たちが授業で作った幟を放課後に立てたんだよ。飾り薬玉はくの一がね。武家と宮中の様式が混ざっちゃってとんちんかんだけど、きれいだろう?」
 やや篭もって聞こえる声で、下の方から伊作が説明する。
 穴から這い出し首が痛くなるほど顔を仰向けて幟を見上げていた喜八郎は返事をするのを忘れた。そこへ歩いて来た誰かが肩にトンとぶつかっても、まだ一心に見上げていた。
「喜八郎か。いいところに」
「……」
「おーい。きはちろーう」
「あい」
 ようやく顔を前に向けた喜八郎に、大きな箱を抱えていつの間にか横にいた仙蔵が苦笑する。
「節句飾りに見とれていたのか。しかし、上を向いてぼんやりしていては危ないぞ」
「あ、そういうことか」
「何の話だ? 飾り付けを頼まれたんだが、手が空いているなら手伝ってくれないか。幟も薬玉も、出来上がってみたら思っていたより数が多かったそうでな」
「はーい」
 軽い返事をした喜八郎は仙蔵の後について行きかけて少し足を止め、幟の群れにもう一度目をやった。
 風に吹かれてばたばた泳ぐ鯨のような鯉の絵。誰が描いたのか知らないけれど、あれはイイな。気に入った。

 さくさくと弾むような足音が離れて行く。
「……あれ。これ、もしかして、置き去り?」
 深い穴の底、遠くに見える空を仰いで呟いた伊作の声は、土に吸われて消えた。